【寺島英弥、写真も(ローカルジャーナリスト、尚絅学院大客員教授)】今年1月の能登半島地震、さらに9月の豪雨災害が襲った石川県輪島市の小さな浜の集落は、余りに復旧が遅い現実ゆえに忘れられるどころか、全国から大学生ら大勢のボランティアが支援に集う。精神的にも打撃を受けた住民たちとの交流が希望を生んでいる。そんな事実を、後編でお伝えしたい。
集落の支援に全国から集う学生たち
能登半島の被災地支援で11月初め、尚絅学院大(宮城県名取市)の教員と学生の支援チーム8人が活動した石川県輪島市門前町の深見地区。県都・金沢市に近い羽咋市の宿舎(教会の伝道所)からワゴン車で通った深見の集落は、「海岸道路」と呼ばれる半島北辺の県道の終点で、浜に面して家々の倉庫が軒を連ねる。その一棟を、学生ボランティアの参加を呼び掛ける地元・北陸学院大学(金沢)と日本ソーシャルワーク教育学校連盟(同大など社会福祉士養成校が加盟)が借り受けて支援拠点にしている。
尚絅学院大をはじめ、神戸大、北九州市立大、熊本学園大、帝京大などの学生が集った午前9時過ぎ、復旧作業の中心である田中純一さん(58)=北陸学院大教授(防災社会学)=が円陣のミーティングを行い、当日の活動の内容や注意点を伝えてくれた。それが終わると、大学生たちは集落でのミッションの場所へ散らばる。
尚絅の学生たちの活動最終日だった今月4日は、日本海がまぶしいほどの好天ながら、海風が強く、豪雨水害の泥が乾いた砂ぼこりに悩まされた。「冬は風が猛烈になり、立っていられない。潮で(エアコンの)室外機がやられ、浜の砂利も道路に飛ばされ、皆で掃除をするほど。海岸道路に面した倉庫はみな母屋の風除けなんだ」。深見地区の元行政区長、吉田勲さん(75)は能登の自然の厳しさを語った。
危機に瀕する住民たちの暮らし
その倉庫前で昼休みに会った吉田さんは、筆者を裏手の自宅に誘った。「うちは岩盤の上にあり、正月の地震では棟瓦を損壊しただけ。水害の時も土地が高くて土石流を免れた。今は住民の絆を守って支え合う時だ」。集落から近い道下(どうけ)仮設住宅で集落ぐるみの避難生活をし、区長の角海義憲さん(72)らと毎日のように集落に通って、田中さんの相談役になり、ボランティアと一緒に汗も流す。
「正月の大地震は夕方4時過ぎだった。深見では避難訓練を毎月やって、『大津波が来る、山に逃げろ』と全住民が、川上にある元分校の避難所に車で集った。非常食も水もたっぷり備え、どの家も正月の餅をたくさん持ち寄り、ごちそうの牛肉を入れた雑煮も作れた。避難所に発電機があり、燃料は漁船の船外機用のガソリンで賄えた。県道のがけ崩れで孤立したが、帰省の子ども、孫も入れて約60人、自衛隊のヘリで救出されるまで11日間を持ちこたえた。ここは意識が高いし絆も強い」
吉田さんは元外国航路の貨物船乗り。貧しい時代の深見の男たちは「高校を出ると海員免許を取って海に出た。出稼ぎやね。今はその年金暮らしだよ」。そう言いながら、自身の名が生産者として刷られた商品「能登岩海苔」を見せてくれた。深見など奥能登の磯には、コンクリートで平らに造られた「のり畑」があり、岩のりを天然の環境で育てて冬に住民たちが手摘みしてきた。だから高級品。
「本格的な漁業者はおらず、これが唯一の現金収入だった」。だが海岸の隆起で、のり畑も干上がった。日々の楽しみに海に船を出し日々の魚を取り、畑で多彩な野菜を育て、冬は岩のりで稼ぎ…。集落のそんな暮らし方は地震と水害で危機に瀕している。
励ましに「集落、家を残したい」思い強まる
「正月の地震の後、深見までの道が崩れて、隆起した海岸を歩いて避難所にたどり着いたら、住民みなで三食をこしらえて和やかに食べていた。どんなことがあっても、誰も食いっぱぐれはさせない。そういう信頼の関係、強い絆があるんです」
2007年の能登半島地震でも、がけの崩壊で道を塞がれて深見集落は孤立し、住民たちは船で脱出した。その時から田中さんは深見の人々と縁が生まれ通ってきた。今回の地震で家屋全壊は1戸だけ、半壊の家も被害はひどくなかった。住民は仮設住宅で暮らしながら、「再建できるんじゃないか、と集落の家に戻っては修繕をしたり、新しいふすまを建具屋から入れたりした。ところが、地震から立ち直った時に、あの水害、土石流が起きた。古里の惨状に精神的な打撃は大きく、『もう、ここには住めない』と口々に語っていた」。
それからひと月が経って、変化が生まれ始めた。大学同士の縁でつながる全国の学生たちをはじめ、大勢のボランティアが深見に入り、高齢の住民には諦めるしかなかった床の上下の泥出し、がれきの片付けを始めた。集落のために集う若者らに住民も元気づけられ、「年配の女性が学生にアイスを差し入れたり、スイカを割ったり、交流が深まり、サポートする側になった」と田中さんは振り返る。
区長の角海さんも自宅を大量の土砂で覆われて、「もう住めない」と諦めかけた(前編参照)。深見漁港の小屋に船外機付きの小さな船を置き、「ささやかに漁をしていたが、地震の隆起で海もなくなった」と落胆が募った。そこへ毎日、学生たちが泥出し作業に訪れ、重機持参のボランティアが流木を片付け始めた。
「応援がありがたく、学生たちは励ましになった。私も『何でも言うてくれ』と前向きになれた」。被災の惨状が薄まるにつれて「この集落を残したい、家を残したい」との思いが強まったという。現在、住民の半数は仮設住宅から復興(災害公営)住宅に移る意向だというが、「ボランティアのおかげで、『もう住めない』と言っていた隣人らが『まだ残るわ』と気持ちを変えている」と笑みを浮かべた。
国、県は早く生業再生の計画を
東日本大震災の前例と比べても、復旧が余りに襲い能登半島地震の被災地。「過疎地だから国は見捨てるのか」という地元の声も耳にした。11月の総選挙で15年ぶりに与党候補が敗れた結果に、そんな秘めた思いは現れたのではないか。北陸学院大の田中さんは「能登の若い農業者が稲作再開を諦め、廃業する現実が既にある。深見でも集落の次には、畑地など生業の基盤の早い再生が必要。ボランティアではできないことがある。国、県は希望の持てる計画を示してほしい」と指摘する。
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