「スローカル(Slow & Local)」を目指す、東北大生の手作りメディア「しょう新聞」

寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】『しょう新聞』。北海道白老町出身で東北大法学部3年の北平将さん(21)が、一人で取材執筆、編集し、120部ほどを発行する新聞がある。仙台市で暮らして3年余り、弁護士を志し勉強する傍ら、離れたからこそ見える古里の現在、過去、未来をテーマに書き続ける。白老は仙台藩と歴史の縁ある町で、東日本大震災の教訓も古里に伝え、2つの地域をつなぐ新聞でもある。目指すのが「スローカル(Slow & Local)」。丹念に人に問い、地域を掘り起こし、何度でも読んで考えてもらう紙媒体の作り手の仲間を募っている。

古里・北海道白老町

北海道の太平洋岸、苫小牧と登別の間にある人口約1万6500の白老町。北平さんは大学の期末試験の後、3月に帰省した。新型コロナウイルスが2月半ばから道内に広がり、苫小牧など白老の近隣にも感染者が出て、鈴木直道道知事が独自に「緊急事態宣言」を発令していた最中だ。

「大学の友だちが白老に遊びに来る計画をやめにし、OBとして手伝う予定だった高校合唱部の定期演奏会も中止になった。町は感染防止の対策として公共施設の休館を決め、北平さんの母親が働く子育て・居場所づくり支援のNPO法人「お助けネット」の活動の場も狭められた。

地元の学校も休校になり、毎日の居場所や学びの機会をなくした子どもたちの状況に、「オンライン学習環境がすぐにできる都会との格差や、一番支援を必要とする弱い立場の家庭のことを考えさせられた。こんな中でも勉強を続けられる学生がありがたいと思った」と話す。

白老町ではもう一つ、地元の期待を集めながらコロナ禍の煽りを受けたものがある。北日本で初のナショナルミュージアムとなる国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園、アイヌの人々の慰霊施設ーから成る民族共生象徴空間「ウポポイ」だ。アイヌの歴史、儀式や生業、暮らしを学び、伝承・発信し、多様な共生の文化を創造する場として、伝統的コタン(集落)や体験交流ホール、工房なども併せ、総事業費約200億円で町郊外のポロト湖畔に建設された。

行政や道内企業、航空・旅行会社などを網羅する「官民応援ネットワーク」も組織され、〈東京オリンピック・パラリンピックに先立ちオープンし、年間入場者数100万人を目指します〉とPR。北海道観光の目玉にもなったが、4月開業の予定が5月に延期され、現在も未定だ。

「オープンに向けて町が回っていた。それに合わせて新しい店を開いた人も多い。『しょう新聞』で取材した人たちがどうしているか、会いに行きたかったが、(コロナ禍のため)それもできなかった」と、仙台に戻った北平さんは話す。

大学の新学期は始まったが構内にまだ入れず、オンライン授業の毎日。目指す司法試験の予備試験も5月から8月に延期され、いまは部屋で勉強優先と決め、次の新聞作りの活動もそれからになる。しかし、古里への思いは片時も離れない。

筆者に見せてくれたのは、「ウポポイ」を整備中のポロト湖畔が表紙の「しょう新聞」『アイヌ語の響くまち』特集号(2019年11月3日発行)だった。

アイヌ文化復興を共に考え

〈過疎地には珍しく、空前の建設ラッシュに町は沸く。象徴空間に合わせ、国道の拡張工事。駅の大規模改修。アパート建設。観光施設の建設…。
(中略)なぜ今、このような施設が建設されることになったのか。そこには日本の先住民政策の大きな遅れがある。アイヌ民族の土地や権利を奪い文化を否定し、近代国家を建設してきた日本。今なお格差や差別が残る。文化の存続も危ぶまれる。
(中略)立派なスローガンを掲げても、立派な建物ができても、町が、町に生きる私たちが変わらないと意味がないと私は思う。今、象徴空間を迎える私たちはどんな町を目指せば良いのだろうか。〉(特集号の前文より)

なぜ、白老町がアイヌ文化復興のセンターに選ばれたのか。1881(明治14)年、明治天皇が白老町を訪れ、白老コタンで「熊送り」の儀式などに触れたことがきっかけで一躍有名になったという。町は“アイヌ観光”の中心となったが、明治政府による北海道旧土人保護法が1997年まで存続し、アイヌ保護を謳う一方で土地の没収、伝統の・狩猟法や慣習・習俗の禁止、日本氏名と「国語」の強要など、アイヌ固有の文化を否定し継承を阻害した。

町への観光客は戦後も増えて年間250万人(1991年)を数えたが、同化政策による民族の誇りの喪失に抗して、アイヌ文化復興を訴える人々が自主運営の「一般財団法人・アイヌ民族博物館」(旧白老町民俗資料館)を開いて内外への発信を続け、町挙げての国立博物館誘致に繋がった(国立アイヌ民族博物館へ発展的改組)。

「古里ではアイヌの文化が身近で、小学校ではアイヌの友だちもいた。実際に関心を深め、何が問題なのかを考え始めたのは高校生のころ。アイヌ民族博物館の館長だった中村斎(いつき)さんを訪ねて、歴史からの学びをいただき、『アイヌの視点から北方領土問題を考える』をテーマに小論文を書いた」

それをきっかけに、社会や家族から失われつつあったアイヌ語の復興に取り組む人たちを知った。独力で「アイヌ語白老方言辞典」を編み、先祖の伝承譚の翻訳と紹介に努める大須賀るえ子さん。アイヌ文化を専攻し、同じく世界で最も消滅の危機にあるハワイ語(ハワイの先住民ハワイ族の言語)の復興教育も調査する本田優子さん(札幌大教授)。アイヌ民族初の国会議員である故萱野茂の生地・平取町の二風谷アイヌ文化博物館でアイヌ語教室の講師として活動する関根健司さん(兵庫県出身)。中村さんをはじめ、それらの人々を再訪し、あるいは遠路訪ねてのインタビューが『アイヌ語の響くまち』特集号を飾った。

最新号が通算196号

A4版で12~16ページもある『しょう新聞』は、北平さんが毎号、パソコンで編集した後に印刷所でセルフコピーをし、120部ほどを発行している。印刷経費は5000円ほどだ。

2019年11月5日発行の『「共生社会」を問う』特集号が、なんと通算196号。北平さんが小学1年だった2007年2月、町の情報や家族の出来事などを、自分が気づいたことをニュースとして書いて、同級生の誕生日のプレゼントにしたという。発行し始めてから1年たつと、小学生手作りの話題の新聞として地元の放送や新聞で紹介され、6年生の時には161人の読者がいた。町の図書館や健康福祉センターでも閲覧できたという。

中学時代は活動を中断し、高校生になって「第2弾」として再開。東北大に合格して古里を離れる2018年3月30日、「臨時号」を出した。とはいえ、題は『考えなければならない白老の未来』と大きい。終戦から1970年代の大昭和製紙誘致など「繁栄の時代」、それから2000年代までアイヌ観光の隆盛やバブル崩壊など「観光の時代」、そして、誘致工場撤退、財政赤字、人口減から子育て支援の町へ転換する「支えあう時代」、最終章が「そして未来を考える」―。仙台で新たに始まる「第3弾」でも向き合い続けるテーマ群だった。

北平さんはこの「臨時号」の末尾に、「白老を愛する」というメッセージを載せた。

〈大学合格が決まり、無性に白老についての新聞を書きたくなった。そしてこの一、二週間、人生で一番長く筆を執った。(中略)思えば私は昔から白老が大好きであった。しょう新聞を発行していたのもそんな白老愛からである〉

と始まるが、次第に町の衰退が目に映ってくると、関心は日本や世界へ移り、昔は胸に抱いた白老町長の夢も消えていたという。だが、古里を離れる3月に祖父が他界した。

〈私に他の誰よりも白老について白老について教えてくれたじいたん…。私が白老の鉱山を見に行きたいと言えば山奥まで運転し、一緒に探検してくれた〉

大好きだった祖父から譲られた宝物が「白老町史」。1000ページもあるが、中学生の時に愛読書に挙げたほど読み、祖父が残した付箋や鉛筆の線引きもある。それをめくりながら「臨時号」を書き、「やっぱり自分は白老が大好きだ。自分の原点だ」と再確認できた。

末尾18ページには白老への感謝とともに、「伝えずにはいられない白老」の文字が躍った。

『平成から令和へ~平成時代の白老』を特集した昨年5月20日発行の「しょう新聞」(通算194号)。「ホロホロ」というコラムに、やはり北平さんの原点との再会が記された。同じ5月の連休で帰省中に訪ねた「仙台藩白老元陣屋資料館」(旧仙台藩が幕末、北方警備を行った陣屋遺構)での話だ。昔なじみの館長から実家に電話があり、行ってみると受付前の壁に「しょう新聞」の『仙台じんや号』が張ってあった。

小学3年の時に取材させてもらった、模造紙2枚分の特大号。当時から大事に保存してくれて、子どもの日にちなんで『現在は東北大学に在籍し仙台で奮闘しています。頑張れ将君!』との説明を添えて展示してくれたのだ。「白老の良さ、古里とのつながりを、より深く感じるようになった」

熟成してもらえる新聞を

東北大の学生になって初めて触れた問題もある。東日本大震災だ。大学で受講した新聞講座をきっかけに昨年、大学生の震災伝承の塾に参加して石巻市の大川小学校跡を訪れ、語り部活動をする遺族の話を聴いた。「震災は小学5年生の時。大きな揺れに驚き、津波が東北の町を襲う様子をテレビで見た。でも、遺族の亡くなった娘さんは自分と同世代。大勢の子どもの命をなぜ救えなかったか、自分が親の立場だったらどうしたか、思いがこみ上げた」。東日本大震災を「しょう新聞」のテーマに加えることにし、『「共生社会」を問う』特集号で仙台市の障がい者の自立支援団体「CILたすけっと」を取材した。

代表者へのインタビューで、震災当初、避難所を回っても障がい者の姿が少なく、さまざまな理由で避難できなかったことが分かったという。異なる環境に対応しずらい、体を思うように動かせない、他者への遠慮があった―などのほか、市が契約した福祉避難所の存在がかえって障がいある人々に、一般の避難所の利用をためらわせた事情もあった。

多様な人々の「共生」は古里のアイヌの歴史をめぐる問題にも通じる、差別も絡んだ最も難しく、かつ持続的に取り組むべきテーマになった。『「共生社会」を問う』特集号で北平さんは、旧優生保護法による強制不妊手術の被害者を仙台で取材。県内の有力団体が一体となって「不良な子孫の出生を防止する」県民運動を推進し、個人を追い込んだ社会があり、1996年まで同法が廃された後も、全国の被害者に「向き合わぬ社会」があった。

北平さんはいま、自分の未来とも向き合っている。弁護士を志望し、コロナ禍で8月まで延期になった司法試験の予備試験に向けて黙々と勉強している。「しょう新聞」の次回号も、取材開始は8月以降になる。ただ、テーマの1つは「移住」と決めている。人口減で「縮小」する地方の可能性は、移住と交流に開かれた町づくりにあり、古里の白老町にも震災後の東北にも共通する、そして「共生社会」そのものにつながるテーマでもある。

そして、これからも変わらない「しょう新聞」のポリシーがある。毎号の1面に掲げた『LEAD 明日を導くスローメディア』という言葉だ。北平さんの定義は、

<①地域の問題はまず地域で掘り起こして考える(Local) ②読者と筆者が共に対等な立場で考える(Equal)③現場を丹念に取材し、現場の視点で考える(Actual) ④じっくりと深く何度でも考える(Deep)。頭文字をつなげると(LEAD=地域を導く)になる>

「それにふさわしいものが、ネットではなく、紙の媒体。読み終えた新聞の切り抜きのように机の隅において、熟成させて読み直し、考えてもらえるメッセージを届けたい。悲観的に思える問題でも、現実を見つめて初めて、希望をもって楽観視できる。それこそが地域には大切。共感してくれる読者、一緒に新聞を作ってくれる仲間を募っています」

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