東日本大震災で被災の「相馬駒焼」十三回忌迎える15代目の思いを未来に残したい 

寺島英弥(ローカルジャーナリスト・名取市在住)】優美な「走り駒」の文様、黄味がかった温かみある磁肌。旧相馬中村藩の「藩窯」として約400年の歴史ある相馬駒焼(福島県相馬市)の15代目窯主・田代清治右衛門(本名秀人)さんの十三回忌は、東日本大震災からの歳月と重なる。がんとの闘病をしながら作品づくりを続けた清治右衛門さんは、2011年3月11日の地震で工房を被災し、心を折られたようにその夏、64歳で逝った。形見の作品と店を守ってきた妻恵三子さん(75)は、ある決心をし、夫の工房を未来に残したいという。 

相馬を象徴する「走り駒」 

相馬市の田町通りに、市民には昔なじみの相馬駒焼の店がある。毎年7月の相馬野馬追(国重要無形民俗文化財)の祭日には注連(しめ)縄が張られ、色とりどりの旗指物が飾られ、甲冑武者と騎馬の行列が「参れ、参れ」の号令で練り歩く。目を引く絵柄が荒々しい馬の姿。馬は、兵に野馬を追わせて鍛錬した平将門以来、子孫の相馬氏の象徴となり、最も大切な陣紋(本陣の幕の紋)になってきた。 

相馬市田町通りの相馬駒焼の店

相馬駒焼の店に並ぶ品々にも、奔馬が水墨で描かれている。「『走り駒』というんです」と恵三子さん。1628(寛永6)年に開窯、1649(慶安2)年に藩の御用窯になったと伝わる長い歴史。それを受け継いだ15代目清治右衛門さんの作品だ。 

筆者の目に留まった抹茶椀には、二頭並んだ「走り駒」。奔馬ながら墨の線は淡く太く、姿も優しく、磁肌は明るい。和みの味わいが深く、「夫婦駒」かと思った。「見る人によって親子とも兄弟とも。若い時は、創作への飢餓感というか荒々しさがありましたが、50代に入っての作品には温和さが生まれました」 

太く淡く、温もり深いく描かれた「走り駒」

清治右衛門さんは1988年から10年間余り、市内の保育園の子どもたちを窯場に招いて、伝統文化を教え、卒園制作を手伝い続けた。そんな真摯さと優しさがあった。

受け継いだ15代目の挑戦 

相馬駒焼は昔、藩から外への出荷、持ち出しを禁じられ、将軍家への献上品、諸大名、内裏などへの贈答品として作られた「お止(とめ)焼き」で、庶民の生活の器だった大堀相馬焼と対照的な歴史を持った。珪砂の混じる粘土を用いる独特の技法があり、代々に名人が輩出。14代の父も戦前の産業統制期、敗戦後の混乱期にあって「象嵌(ぞうがん)などあらゆる手法を駆使し名品を残した」と賞された。 

清治右衛門さんは、美術学校で学ぶ夢を抱きながら、父から修行に出され、本場・岐阜の高校に入り、美濃焼の人間国宝・故加藤卓男氏の元で研鑽を積んだ。 

ろくろを使う相馬駒焼は左右対称ですが、美濃焼は非対称に美を見いだす。「伝統」と「現代」の違いは衝撃的でした。父の仕事とはまるで別世界なわけですから。卒業後は3年間、お世話になりました。しゃれっ気のある方で、制作上のセンスを学びました

2005年1月18日の河北新報朝刊『あの日 あの時』より

窯主を継ぐと、駒絵の継承、先祖代々の作品からの技法復元、15代らしい作品の創造を目標に掲げた。初代が師事し「清」の字を与えられた―と伝わる京焼の大成者、野々村仁清にも立ち返って研究。工房には上薬の研究室を設け、調合と発色の実験を重ねて独自に400種類もそろえたという。「伝統」の枠を超えた挑戦から、日展で15回もの入選をし、東北新工芸展大賞に輝いた。走り駒が描かれておらぬ、緑や黄の色が鮮やかで斬新な造形の作品も、田町通りの店で筆者の目を引いた。 

ありし日の15代田代清治右衛門さんと登り窯(田代さん提供)

 震災の被害に失意深く 

2011年3月11日を、恵三子さんは深い痛みとともに思い出す。相馬市内で震度6強を記録した東日本大震災は、市内で486名の死者を生む津波と、5200戸余りの住宅損壊をもたらした。その被害は、相馬駒焼の工房にも及んだ。 

「15代目はそのころ食道がんを病み、宮城の病院での放射線治療に通いがら自宅療養をしていました。具合が良くないと休んで、起きては工房で仕事をして。そんな日々に、あの地震が起きました」 

相馬では60年に一度、大きな地震が起きる―という言い伝えを恵三子さんは聞いていた。が、それは未体験の激震だった。店も、奥の工房も激しく揺さぶられ、清治右衛門さんの多彩な作品の3分の1が壊れた。そして、粘土から成形し乾燥中のもの、素焼きのもの、下絵を入れて本焼きを待ものなど、手塩に掛けたさまざまな半製品も、さらに外の保管庫にある先人たちの貴重な作品の多くも壊れていた。 

「それを目にして、15代目はショックを受けました。自分の病気を知って『何かを残さなくては』との思いで、ろくろに向かっていましたから」 

店に並んだ15代清治右衛門さんの作品と恵三子さん

「焼き物や半製品のかけらが、工房の床にいっぱい落ちて散らばり、私が片付けを手伝おうとすると、『いやだ』と。がんの痛みはかなりあったはずで、それに耐えながら一人で、何日も掛かって片づけていた。支援に来てくれたお客様たちへの応対も続けながら。相当な感慨、残念な思いがあったでしょう」 

清治右衛門さんは病気を知りながら隠していた、と恵三子さん。震災の前年8月、仕事中に吐血し、自ら車を運転して病院に行き、すぐに入院となった。10月半ばから宮城の専門病院でも検査を受け、年内には放射線治療が始まった。正月を挟んで治療と検査に通いながら、工房にこもって仕事をする生活だった。 

「15代目は主治医に『あと何年、生きられるのか』と聴き、自分の余命を知っていました」と恵三子さん。最後の作家人生を燃やす作品づくりに没頭したかった清治右衛門さんから、震災はその時間を残酷に奪い去った。治療先の病院もまた被災し、待たされた末の再開はようやく5月初め。心の痛手は深く、病状は日に日に悪化し、7月10日に帰らぬ人となった。 

 残された苦境、始まった支援 

窯主亡き後の相馬駒焼の店と文化的遺産の行方を、恵三子さんは一人で背負った。積年の借財も重かった。長男の土師命(はじめ)さんは後継を志し、父の下で修業を始めていたが、30代初めの若さで他界。そのことも清治右衛門さんの最後の決意と失意を一層重いものにしたことだろう。 

東北、関東で最古という登り窯も被災していた。斜面に沿って長さ約13㍍、幅3・5㍍。「連坊六室倒焔式」の大きな窯は相馬駒焼の高い格式を伝えたが、上屋や窯本体が破損。福島県有形民俗文化財であり、相馬市が5年前、5000万円で譲り受けて修復し、全体を覆う施設も造って永久保存の方策を施した。 

しかし、新たな地震による被災は続いた。21年2月、22年3月にも相馬市内で震度6強を記録する大きな地震があり、相馬駒焼の工房でもそのたび、清治右衛門さんの貴重な作品が失われた。 

2022年3月16日の地震で割れた清治右衛門さんの遺作の器

「震災の後も、去年、今年と地震の被害が絶えず、市の文化財担当者も対応の手が回らない状況のようで、壊れるままにしてあります。一人では家業継続もどうにもならず…」。恵三子さんの苦境を、昨年6月6日の記事『度重なる地震被害、後継者不在…伝統の「相馬駒焼」が存続の危機 福島県相馬市 』はこう伝えた。 

それをきっかけに同市出身の日本画家、鈴木龍郎さん(71)が「歴史ある城下町の文化財や景観を、喪失の危機から救う市民の活動を起こそう」と、相馬市民有志と大学の専門家らが協働するボランティア団体「そうま歴史資料保存ネットワーク」を立ち上げ、相馬駒焼の工房の片付けなどの支援と調査に乗り出した。(同年11月22日の記事『相次ぐ地震、失われる城下町の文化財を救え 「そうま歴史資料保存ネットワーク」の活動始まる』参照 ) 

 未来に生きる種に

大震災から丸12年を数える今年は、清治右衛門さんの十三回忌である。恵三子さんは、相馬駒焼の未来につながる、ある決断をした。藩政時代が終わった明治以来、庶民の器としての歴史を重ねた田町通りの店と借財を、ひとまず整理し休業として、これからは夫の遺志を大切に工房を守っていくことにしたという。 

「あるころから、一つ一つの工程に手数、手間のかかった物の価値や意味が忘れられ、安いものがいいという風潮に世の中が変わりました。でも最近の“SDGs”のように、次の世代まで使える物を大切にしていくという流れも生まれ、また世の中が変わるかもしれないね」 

清治右衛門さんのろくろ場。人生の最後まで創作を続けた

震災とその後の相次ぐ地震で被害のあった工房は、「そうま歴史資料保存ネットワーク」の支援活動でだいぶ片付き、清治右衛門さんのろくろ場もほぼ元通り、生前のきめ細かな道具遣いと仕事ぶりがしのばれるような様子になった。 

工房の外には、田代家代々の持ち山で清治右衛門さんが掘りだした粘土、それに混ぜる硅砂(石英砂)、そして相馬駒焼の独特の風合いを生む釉薬の原料(ケヤキの外皮を灰にした精製品)が保管されている。「みんな、未来に生きる種にして残したい」

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