【寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】「メンタルクリニックなごみ」。相馬市の住宅地に、東日本大震災、福島第一原発事故の被災地の心のケアを目的に、2013年春に開業した診療所がある。精神科医、蟻塚亮二さん(76)は2代目所長として診療を続けて10年。震災、原発事故は被災地の人々の心の中で続き、癒されぬまま、多くに心的外傷後ストレス(PTSD)の懸念があるという。「診察室を『語るあなたと聴く私』の場に」という日々の活動とともに、胸の内を自由に語れる『おらもしゃべってみっか』と題する催しも続ける。「心配は、もの言わぬ子どもたちのこれから」という蟻塚さんを取材した。
震災から時間が止まった街
昔からなじみの店や家々が、いま、郷里のJR相馬駅市を下りる度、櫛の歯が抜けるように砂利の更地になり、傍らに重機による解体作業が見え、それがつながった空白の風景が街に増えている。やがて、そこに何があったのか思い出せなくなる。
11年の大震災で津波被災地となった相馬市内は、内陸の中心部も大地震で被災し、さらに19年10月の豪雨水害、21、22年の震度6強の地震で家屋全壊が相次いだ。旧中村藩城下町の面影を残した古い木造の家並は被害甚大で、解体、更地になった後、「心が折れて、もう再建する気力も起きない」という住民の声を聞いた。
「なごみ」の仕事を終えた蟻塚さんと商店街を歩いた。相馬の古地図で町割りの中心だった大町。江戸、明治期以来の丁子屋書店、割烹旅館新開楼がこの数カ月に解体され、長い築地塀があった商家・野崎家も1本の柿の木を残して姿を消した。往時の中村城に通じる桝形の道沿いには、何もない砂利の空地が広がるだけだ。
「相馬の街を震災後見てきて、全部止まっている。時間が止まっている」と蟻塚さんは語った。震災から12年、復興はどこにあるのだろうか。「今また街が壊れていく中で、未来が見えないという人が増えている」。そんな実感があるという。
「なごみ」では若い医師と週に3日ずつの2人体制で、1日に40人ほどの来院者を診ている。「新患の人は、1時間くらい掛けて話を聴いている。どこで生まれたか、両親や生い立ちのこと、そして震災時の体験を必ず聞く」。開設当初、1カ月の患者数は約390人だったが、今は倍以上の約850人を数える。高齢者が増えているという。統計調査では、震災のトラウマ(心の傷)を抱えた、PTSD(心的外傷後ストレス)の懸念ある人が10%ほどもいる。「一人一人が震災を背負っている」。
福島第一原発に近い双葉郡の高齢者施設にいたある看護師さんは、原発事故当時、入所者たちと一緒に関東に避難した先で「放射能があるかもしれないから、と年寄りたちが裸にされシャワーをかけられた。ショックだった」と語ったという。その後、別の施設に勤めたが、突然、読み書きができなくなる症状が起きた。子どもの時にそうした障害があり、震災、原発事故をきっかけにストレスが高じてまた症状が現れた、と蟻塚さんは診断した。現在は回復し、元気に働いているという。
長く通う菓子店主もいる。繰り返す災害で「多くの仲間が心折れ、商売をやめていった」と語り、「その上で、汚染水って何だよ」と蟻塚さんに訴えた。汚染水とは、8月下旬に福島第一原発から海へ放流が始まった処理水(構内の高濃度汚染水を処理したトリチウム水)のこと。原発事故の恐怖がぶり返すような怒りがこみ上げたのだ。「その人とはもう治療というより、身近や社会の出来事を語り合ってきた。商店街の仲間たちが廃業した中で、しかし、その主人は店を新しく、大きくした。トラウマを体験した人が、そのことで強くなり、成長するということもある」
震災で傷ついた子どもの心
蟻塚さんが懸念するのは、中高校生の不登校や発達障害など、子どもの来院も増えていること。「集団に入るのが怖いと不登校になった子。母親の過干渉で、クリニックに逃げ込んできた子。『お前が生まれてこなければよかった』と、子どもにとって最大の虐待の言葉を言われた子もいる。その子の目の前で、最大の権力者であった母親を“ぶった切って”やると、それからは、人前で倒れることもなくなった。大人のルール、言いなりに従わないことが、子どもを成長させることなんだ」
懸念を募らせるような統計もある。震災、原発事故の後の5年間で、福島県内の児童虐待の報告件数が約3.5倍に増え、被災地の浜通りでは、いじめ、不登校も増えた。20歳未満の若者の自死の件数も、18年度に福島が全国で最多になった。「県内のコミュニティーが壊れていることが現われているのでは」と蟻塚さんは話す。
「なごみ」の所長に赴任する前、弘前市の藤代健生病院院長を務めた後、04年から9年間、沖縄協同病院(那覇市)など沖縄で診療活動をした。その際、さまざまな心身症状を訴える来院患者に沖縄戦を生き延びた共通体験、深い心の傷が癒えぬままにあることに着目し、戦後半世紀以上を経ての「遅発性PTSD」を見出した=『沖縄戦と心の傷 トラウマ診療の現場から』(岩波書店、14年)など参照 =。
「沖縄では戦後15~20年が経って、“戦争精神病”が多発した時代があった=(注)1966年11月19日の『沖縄タイムス』は、沖縄での精神衛生実態調査で精神病有病率が「本土の二倍」という数値になったと伝えた=。同時に、若者の非行も多発した。子ども時代の沖縄戦のトラウマ体験を抱えた人が多かったのだろう」
福島県では、震災と原発事故、避難の過酷な体験してき子どもたちのメンタルの調査が行われてこなかった。 沖縄と同様の現実が「これから出てくるのでは」。
『震災時の小中学生 心の相談 20代で増加』。11月25日の河北新報1面トップ記事だ。震災で最大被災地だった石巻地域で、当時小中高生だった20代からの心の相談が増えている現実が「震災こころのケア・ネットワークみやぎ」(仙台)の現地相談施設での調査から分かったという。それによると、18年度まで50代以上が6割を占めたが、21、22年度は40代までの若年層が増加し、とりわけ20代が目立つ。相談者の半数は仮設住宅を経験し、長くストレスを抱え、いじめを機にした引きこもり、親の離婚などを経験し、不調で仕事が続かない悩みの訴えも。この実情にも関らず、国は相談支援予算を打ち切り、継続を願う関係者の声を記事は伝えた。
「語るあなた、聴く私」の場づくりを
「一番大切で必要なのは、『語るあなた、聴く私』の関係をつくる場なんだ」と蟻塚さんは言う。沖縄での診療や調査、日常生活の経験から、「沖縄戦の後も、米軍の占領統治、現在も基地問題があり、沖縄の人々にとっては戦争がまだ続いているような状態だ」。それは、震災、原発事故をめぐる問題が終わっていない福島、東北の被災体験者の心情と重なる。「それでも沖縄の人々の強さをわが目で知ったのは1995年、米兵の少女暴行事件があった時。現地の県民集会で、数え切れぬ人たちが一緒に悲しみ、泣いていた。『あなたの心が痛いと、私の心も痛い』という自他の傷みを分かち合い、みんなで悲しむ文化、歴史、暮らしが今もあることだ」
筆者の震災取材を思い出す。東北の被災地の仮設住宅で、津波でわが子を亡くしたある母親が「同じ棟に2人の子を失った家族がおり、私は人前で悲しんだりできない」と“憚る”気持ちを漏らすのを聴いた。福島県飯舘村の仮設住宅では、仲間を世話し励ます役目の女性から「一人で車に乗った時に泣いている」と訴えられた。
人は古里を失い、人生を否定される時、生きる根幹の柱を折られ危機に陥るーと筆者も原発事故被災地の取材から学んだ=拙著『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(明石書店、18年)参照=。蟻塚さんは当事者たちと向き合い、沖縄での経験を生かし、「私は診察室を、そんな場所にしている。『あんなつらい体験をしながら、こうして生きてきたあんたはすごいよ、勝者だ。いい顔しているよ』と伝えると、みんな、ぱっと顔が明るくなる」。苦しみを乗り超えた時間を肯定され、尊敬とともに認められることで、過去と今の『溝』は埋められていくという。
「おらもしゃべってみっか」
11月18日、南相馬市民文化会館「ゆめはっと」で3年目となるトークイベント「おらもしゃべってみっか」が催され、地元や相馬市などから約30人が参加した。蟻塚さんが代表の「震災ストレス研究会」が主催するこの集いは、「語るあなた、聴く私」の実践で、当事者たちの無胸にある「いままで語られなかった、語れなかった」被災、避難の体験と思いを自由に吐き出し、互いに聴こうという場だ。この回のテーマは、蟻塚さんが気になっている「今、子どもたちに起きていること」。
登壇者の一人が、相馬市で「一誠塾」という学習塾を主宰する竹島一誠さん(48)。相馬生まれで、英国ウェールズの大学を出た後、大阪で塾の講師をし、地元に帰って小学校の英語学習支援員を経て、海辺の松川浦で個人塾を開講した。12年前、震災の津波に相馬の浜一円が襲われた後、竹島さんはある避難所のボランティアになり、家をなくした子どもたちにプリント学習をさせ、遊具で遊ばせた。
そのころから「子どもたちの様子が気になっていた」と語った。「生活や仕事をどうする」「保険はどうなる」と心配を抱えた親の影で、子どもたちはごろごろとゲームをやっていたという。塾を再開したが、彼らには年々ある傾向が強まった。
「小学生から高校生まで、『チャレンジ』というか、思い切った挑戦をする子どもが減った」。地元の相馬高校は旧制中学の歴史ある進学校だったが、「東北大など国公立大学や東京の私立に挑戦しようという子が、がくんと減った」。「保護者にも、子どもを遠くに放したくない、手元に置きたいという『抑制』の気分が広まった。見守ると同時に、突き放す覚悟も必要だが、“臆病”になる親が増えた」
市内の教育関係者にも話を聴く機会があった。震災、原発事故のため大学進学を諦めた高校生たちのニュースは知っていたが、「相馬の商業、特に飲食業関係の家庭は相次ぐ地震災害に追い討ちを掛けられ、親たちが未来を描けず、子どもにも遠くに行かず地元にいて働いてもらいたい、と考えている。子どもたちも不思議なほど素直だ」。経済的に苦しい環境からか、奨学金の申請はかつてなく多いという。
悲しみがつなぐ絆で新しい未来を
「おらもしゃべってみっか」では、元南相馬市小高中の養護教諭だった井戸川あけみさんも語った。原発事故で全生徒が点々と避難し、親と別れ、友人が津波で流された子もおり、「戻りたいのに戻れず、すべてを失い、未来も分からなくなり。いろんな事情を抱え学校に戻った子たちは、『どうにもならないことへの憤り』から荒れたり、さまざまな身体症状を訴えたりした。親に心配を掛けない良い子でいれば、親は安心するが、震災から12年、気持ちを出せないままに必死で頑張ばって働いていると思う。思いを聴いてもらえる人に出会ってくれたら、と願います」。
震災、原発事故は、人と人の関係も壊した。「震災より、震災の後がもっとつらかった」と来院者たちは診察室で訴える、と蟻塚さん。子どもたちもまた未来を壊され、子どもを育てる文化も失われようとしている。悲しむことさえできなかった人が、今も被災地には多いのだ。「おらもしゃべってみっか」でこうも語った。
「悲しみを聴いて受け止めてくれる人がいて、人は初めて悲しむことができ、心の『SOS』を伝えることができる。悲しむのは他者を信頼でき、自分も生きることへの肯定的な意思を持てること。傷ついた心は重いが、相馬の菓子店主のように、悲しみがつなぐ『絆』をエネルギーに、被災地に新しい未来をつくれるはずだ」
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