あこがれの叔父は火だるまで空に散った 洋画家・渡辺雄彦さんが語る2枚の絵と戦争 

寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】郷里の先輩で、日展などで長年活躍してきた洋画家、渡辺雄彦さん(91)=日洋会理事、宮城教育大名誉教授、仙台在住=が見せてくれた、幼いころの2枚のクレヨン画がある。太平洋戦争の日本軍の飛行機が空をゆく様子と、りりしいパイロットの男性。小学生だった渡辺さんと弟が、あこがれた陸軍航空隊の叔父を思い描き、当時婚約者だった叔母に贈った絵だった。昭和20(1945)年8月15日の終戦の半年前、叔父は本土防衛の空戦で散った。未亡人になった叔母が5年前に亡くなる少し前、送ってきた絵と再会したという。渡辺さんによみがえった思いを、戦後79年を刻む終戦記念日に伝えたい。 

貧しい農家から軍人になった父と叔父 

仙台市太白区若葉町にある自宅アトリエで見せてもらった2枚の絵。戦時中の薄い画用紙ながら、クレヨンの色が今も鮮やかだ。当時、福島県相馬郡飯豊村(現相馬市)の飯豊国民学校(小学校)4年生だった渡辺さんは、叔父の勝也さんが操縦する陸軍航空隊機が友軍機と雲間を飛ぶ雄姿を、2歳下の弟雄義さん(故人)は南国の基地で出撃を待つ飛行服の叔父を描いた。 

戦闘機で空を行く叔父を想像し、渡辺さんが描いた絵

渡辺さんの父・能(あたう)さん=57年前、62歳で他界=も軍人で、郡内の徴兵検査で最優等者が抜擢された宮中警備の近衛兵となり、中国戦線に派兵されて退役軍人となった。農家を継ぎながら、地元の青年学校(実業教育機関)で若者の軍事教練の指導者を務めた。教練は国民学校の校庭で行われ、教室の窓から眺めた渡辺さんの目に、いつも堂々として立派で自慢の父だった。 

「父の10歳下の叔父は陸軍将校(大尉で戦死)。年に何回か軍刀を提げて帰省するたび、村で戦死した人の家を訪ねては線香を上げた。無口だけれど思いやりが深く、決して悪口軽口を言わず、軍人の鏡のような人だった」 

「外国語で身を立てようと志し、旧制相馬中学から東京外国語学校(現外語大)に合格したのだけれど、家が貧しく仕送りも余裕もなく、志願兵として入営した。配属された先の憲兵隊が叔父の優しい性分と合わず、悩んだ末、陸軍航空士官学校に入ることを選んだ。苦労人だったんだ」 

弟雄義さんが思い描いた飛行服姿の叔父の絵

叔父と離れ離れの叔母を励ます絵 

叔父が見合い結婚をしたのは、航空隊の将校だった1944(昭和19)年。お相手は同県安達郡渋川村(現在は二本松市)の女性、元子さん。「若く美人の叔母ができたことに、はしゃいだ気分だった」と渡辺さん。自宅で行われた結婚式では、叔父から所望されて、雄義さんと「大楠公」の踊り(楠正成と息子正行の永別の場面)を披露した。 

「正直なところ、2枚の絵のことはずっと忘れていた」と渡辺さんは言う。「絵を送ったのは結婚式の前だった。婚約したとはいえ、遠い任地の叔父と離れ離れの叔母を励まそうとしたのだと思う」。絵と一緒にはがきも送った。そこにはこう書いた。 

僕は毎日元気で学校へ通っていますから御安心下さい。もう楽しい春が来ました。楽しい春といっては、南方や北の国に行って居る兵隊さんには、すまないと思っています

子どもたちさえ、楽しいことを楽しいと口にしてはならぬ時代だった。朝礼の態度が悪い子に全校生の前での皮スリッパのびんた、学級でも連帯責任の「全員びんた」が課せられ、学校生活も軍隊式に染め上げられていた。 

父能さんを囲んだ家族の写真。父の前に映るのが小学生の渡辺さん

敵機の大群を偵察機で迎え撃つ 

昭和20(1945)年2月のある日、渡辺さんを家に残して馬車を引いて出掛けた父が、なぜか間もなく帰ってきたという。気になることがあったのか。その時、村役場の人が来て手紙のようなものを父に手渡していった。「雄彦、勝也おんつぁが戦死した」。死亡を通知する戦死公報だった。その時の父の何とも言いようのない寂しい顔を、渡辺さんは忘れられないという。 

叔父は2月16日、本土に襲来したB29やグラマン戦闘機の大群を迎え撃つため、東京・調布の陸軍飛行場を飛び立った。すでに満足な迎撃機はなく、残っていたのは二人乗り偵察機だった。歯の病気治療中で本来この日は休みだったが、口に出すことなく操縦席に飛び乗ったという。やがて「敵機群発見」の一報、続いて「われ敵機群に突入」の通信を残して消息を絶った。 

墜落したのは房総半島。機体は火だるまになって落ちながら、集落の民家を避けるように少し上昇し、裏手の空き地に落ちたという。遺体の顔は黒く焦げていたが、胸ポケットにあった診察券から渡辺勝也大尉と分かった。 

生まれた娘と1度会っただけで 

「終戦の1年ほど後、父は叔母と一緒に現場を訪ねた。地元の人たちは、叔父が墜落の間際、自分たちを助けてくれたと感謝し、名前を刻んだ石碑を建ててくれていた。叔父の墓は、父が実家近くの渡辺家の墓地に建てた。立派な叔父だったけれど、痛ましかったのは22歳で未亡人になった叔母。娘が二本松の実家で生まれていた。叔父は40日目に会いに来て、戦争がひどくなり、それが最後になった」 

叔母は戦後、安達高校の家庭科の教諭となって暮らし、一人娘の史子さん(79歳でご健在)を育て上げた。高齢になって年を重ねて相馬に墓参りに来られなくなり、二本松に叔父の分骨を納めた墓を建てた。そして大切に保管してきた、叔父の面影を描いた2枚の絵を渡辺さんに送ってきた。身の回りの物を整理し、生前の形見分けのつもりだったのか。 

「あのころは、毎日のように出征兵士が『万歳、万歳』の声で見送られ、また毎日のように戦死者の遺骨が無言で村に帰ってきた。自分たちも死ぬ覚悟をしていた」と、渡辺さんは79年前のむごい日々を昨日のことのように思い返す。叔父の死を悲しむ暇もなく、時は破局の瀬戸際まで来ていた。 

小学生のころ叔母に贈った絵を手に、戦争の日々を述懐する渡辺さん=仙台市太白区若葉町の自宅アトリエ

戦争は人間が起こす災害、誰も幸せにならない 

「太平洋から原町無線塔(現南相馬市にあった高さ201メートルの無線塔。42年前に解体)を目標に米軍機が毎日のように飛来し、仙台方面に攻撃に行った帰り道に機銃掃射をしていった。敵が上陸してくると噂が流れ、父は先頭に立って浜に『タコツボ』を掘り、男たちは皆、爆弾を抱えて敵に体当たりする特攻訓練を毎日続けていた。野砲部隊も分宿し演習していた」 

そんなある日、渡辺家では父が家族を集めて、各自がやるべきことの分担を告げた。「6年生の私に与えられたのは、仏壇の先祖の位牌を全部風呂敷に包み、それを背負って阿武隈山地の奥まで逃げて、守り抜くことだった」と渡辺さんは述懐する。「一億国民総玉砕」が叫ばれた刹那の狂気のような現実だった。 

「戦争は人間が起こす災害。震災とは違う。誰も逃げられず、誰が死んでも、誰も助けに来ない。誰も幸せにならない」。2枚の絵の話を初めて聴かせてもらった時、渡辺さんは語った。今も、戦争を知らぬ世代に一番伝えたい言葉だ。 

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