馴染みの店がなくなるということ 仙台「陽季亭」の最後の一日を取材した

【福地裕明】会社帰り、あるいは土日の夜など、ちょっと飲みたくなったとき、我が家の近くにふらっと立ち寄れる店があると嬉しくないか?自宅とも違う安らぎみたいなものが得られる、「楽園」のような場所。そんな馴染みの店が閉店することになったので、5月29日の最終営業日を飲みながら取材することにした。

誰かの居場所になりたくて、学生時代に起業

その店の名は「陽季亭」。窓から差し込む夕陽のように、温かく、陽気でくつろげる場所。八田美夕(みゅう)さん(25)が宮城大学在学中に仙台市泉区寺岡に構えた居酒屋だ。

「陽季亭」外観。文字通り、夕方には西日が差し込む

北海道旭川市出身の彼女がはじめて仙台と縁を持ったのは、2013年、高校2年生のとき。沿岸部での農業支援ボランティアにやって来たのがきっかけだった。その後、まちづくりや経営について学ぼうと2014年に宮城大学に進学。学びを深めていくうちに、「誰かの居場所になるような仕事をしたい」と思うようになった。

ちょうど一階が貸店舗で二階がシェアハウスという物件に暮らしていたこともあり、一階の空き店舗の活用を思いついた。寺岡・紫山地区はキャンパスに近いと理由で暮らしていたが、いわゆる郊外のベッドタウンであり居酒屋が少なく、営業しているにせよ夜遅くまでやっている店はほとんどなかった。自分だったら、こんなところに「家族や夫婦で気軽に歩いて来れる身近な店」があればいいなと思ったし、同じことを感じている地域の人がいるだろうとも考えて、居酒屋を開くことにした。飲食業を選択したのは、両親が旭川でイタリアンレストランを切り盛りしていたことも影響していた。

開業資金の一部はクラウドファンディングで賄い、店内の内装作業も自ら手掛けるなどして2016年11月22日にオープン。「お客さまとともに地域の中で店を育てたい」と考え、皆が集まれる温かい場所という意味を込めて「陽季亭」と名付けた。

開店前から、自ら大工仕事にも携わり、毎年何かと手を加えてきた(2016年11月撮影。美夕さん提供)

筆者はまさに、「同じことを感じている地域の人」のひとりだった。初めて暖簾をくぐったのは2017年4月6日のこと。歳は違うが、初任地の福島県郡山市内で通っていたレストランのママさんに面影が似ていたこともあってか、居心地の良さに惹かれた。以来、単身赴任先の女川からふらっと立ち寄るのが習慣づいた。酒を飲みたいがために自宅の駐車場に車を停め、我が家の玄関を開けずにそのまま直行したことも少なくない。

筆者が初めて訪れた頃のみゅうさんはまだ大学生(2017年4月撮影)。ここから4年にわたり、30回ほど通わせてもらった

カウンターでひとり飲んでは、21時になるとタクシーで帰る老紳士、おもむろに旦那さんがギターを爪弾き出す仲良しご夫婦、町内会やPTAの役員会に、スポーツ少年団の保護者、ママ友たち、そして、彼女の同級生や先輩後輩といった友人関係などなど、寺岡・紫山に縁ある方々がたくさん足を運んでいるのを、ひとりカウンターのすみっこで見てきた。

北海道のつまみ料理といえば「ザンギ」。行くたびにオーダーしていたような気がする

話を戻す。美夕さんは2020年3月に宮城大学を卒業。実はその頃から、「いずれは北海道に帰る」と今後のことを考えていた。ただ、何よりも、何気ない客とのやり取りが楽しみだった。

人とのつながりが好き。だからこそ、休業・閉店を選択

でも、その楽しみがこんなに長く奪われることになろうとは。新型コロナウイルスの影響がここまで長引くとは誰が想像しただろうか。2021年4月17日、彼女はSNSで休業・閉店を告知し、店の前に紙を貼り出した。

店の前に貼り出された休業・閉店の告知

閉店を知った人びとのほとんどが、その理由をコロナ禍によるものだと考えた。実際に、店内でそういった質問を幾度となく耳にした。「次のステップに進むための、前向きな閉店なんです」と、その都度、彼女が答えているのを耳にした。彼女は強調する。コロナ禍が原因で閉店するわけじゃない、と。むしろ、陽季亭ではこんなご時世であっても多くの方々に支えてもらっていた。

理由は、彼女が飲食業、居酒屋という業態をやろうと思った動機に大きく関わっていた。料理を出して客をもてなすということは、彼女にとってはあくまで手段。目的は、店を訪ねてくれた人たちとのコミュニケーションにあった。言葉を交わすことで醸し出される温かさ。その「場作り」こそ、美夕さんがやりたかったことだ。

他愛もない話を交わし、陽気になるはずの場が、長引くコロナ禍によって失われてゆく。巷では、コロナ禍に伴う収入減を他の業態によって穴埋めするやり方もあったが、そのスタイルは陽季亭らしくないとも感じていた。幸い、陽季亭ではコロナ禍にもかかわらず、客足は途絶えなかった。営業への影響よりも、北海道に気軽に帰れなくなったことがつらくなっていった。

北海道に帰るべきか、このまま営業を続けるべきか悩む日が続いた。コロナ禍で思い通りの営業ができないのであれば、このまま続けて飲食業を嫌いになるよりは、「飲食業が好きなうちに」店を閉めた方がいいのではないかと思うに至った。

不思議なことに、一度飲食業から距離を置くと決めたら、急に気持ちが軽くなった。「閉店日を決めたら、前向きになれた」と笑う表情は軽やかだった。

特別感が全くない、いつものような「最後のひととき」

5月の連休明けから閉店までの間は、17時から23時までの通常営業に戻して、精一杯のおもてなしをするつもりだった。が、そんなささやかな願望もコロナ禍は容赦なく踏みにじる。宮城県と仙台市は独自の緊急事態宣言を延長。これによって、当初目論んでいた通常営業ができなくなった。20時までの時短営業(お酒は19時まで)ではゆっくり寛げないと、開店時間を一時間前倒しすることにした。

5月18日に「残り2週間」「予約は一日3組まで」とあらためて告知をしたところ、ほぼ一日で残りの営業日の予約がすべて埋まった。

開店直前に着信。「ごめんなさい。今日は予約でいっぱいで…」とこれまでの感謝を伝えつつ、丁寧にお断りする美夕さん

5月29日、「陽季亭」最後の日。

「最後の晩餐」に訪れたのは、近所にお住まいのご夫婦、親子連れが2組、ママ友3人組、カウンターにひとり呑みの男性2名(うち、1名は筆者)。

ずっと、カウンターの隅で観察していたが、今日で閉店するという特別感は全くなかった。いつもと違う光景はといえば、これまでのお礼にと美夕さんに花束を手渡すところと、帰り際に彼女と記念撮影をするぐらいで、それ以外はいつも眺めている風景と変わりなかった。

店主の思いが伝わってくる「トイレの壁新聞」は26回で連載終了。用を足した後の会話のネタにもなると好評だった

美夕さんはそれぞれのテーブルから、「店閉めたらどうするの?」「いつ北海道に帰るの?」と質問されながらも、終始にこやかな笑顔を振りまき、いつもと変わらぬ表情で受け答えていた。

いつもと変わりないように時が流れ、閉店の時間を迎えた。美夕さんからは特に、最後の挨拶のようなものもなかった。このまま、明日の16時になれば彼女がまた、いつものように暖簾をかけるではないかと思うぐらい、いつもと変わりなかった。

これもまた定番の一品「納豆チャーハン」。美夕さんは開店当初から来てくれている少年に、納豆チャーハンのレシピを手渡した。少年は「やったー!」と声をあげた。

「本当にあっという間でした。閉店するって実感ないですね」。全ての客が引き払ったあと、彼女がポツリと呟いた。実感は、このあとじわじわとやってくるのだろうか。

北海道に帰るために、また「学び直し」

「おばあちゃんの店を手伝うの?」ともよく聞かれていた。彼女の祖母は、石狩市の厚田という地区で燻製を作っている。お手製の燻製も名物メニューのひとつだった。80歳を超え今も現役だそうだが、孫の美夕さんからすれば心配な面もある。

「ばあちゃんの燻製を継ぐ(ために帰る)わけじゃないけど、近くにいて手伝いたいという気持ちはあります」と美夕さん。ただ、今はこれからのことはゆっくり考えたいという。ひとまず一年ほどは宮城に滞在するようだ。ただし、仙台は離れる。

このまま北海道に帰っても、仮に飲食業を立ち上げるにせよ、ゼロからの出発となる。そんな折、亘理町で地域おこし協力隊として活動している大学時代の先輩から声をかけられた。

震災で被災し、何もかも失った場所から、「いのちを守るまちづくり」という、防災をキーワードに文化を作り出す事業に携わるということで、感じるものがあった。ここで学び得たものが北海道で活かせるのではないかと考え、スタッフの一員に加わることを決めた。

暖簾をしまった直後、花束とともに。門出に相応しい晴れ晴れとした表情

「一からまた、学び直しです」と美夕さん。「お世話になった皆さん、寺岡・紫山の皆さんに、いいカタチで報告できるよう頑張ります」と言葉をつないだ。

一日も早く、そんな日が来ることを願ってやまない。

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