【連載:大学生が取材した3.11】「3月11日に向けて記事を書こう」。震災で大きな被害を受けた宮城県名取市にある尚絅学院大学で、ローカルジャーナリストの寺島英弥さんがそんな目標を掲げた実践講座を催しました。「震災を知らない世代」といわれる若者たちが、地元名取市の被災地・閖上の語り部の女性、原発事故の心の傷を癒す医師らと出会い、取材者として話を聴き、その声を伝えるすべを学び、「わが事」と思いを重ねて記事づくりに取り組んだ力作の中から、4点をご紹介します。
【若穂囲優華(尚絅学院大学1年)】2011年3月11日。あの日の大地震の後、すぐ近くの公民館に一緒に避難したわが子を、津波で亡くした名取市閖上の丹野祐子さん。避難生活の後も閖上に留まることを決め、海抜5メートルの高さまでかさ上げされた土地に新しい家を建てた。「息子との思い出の場所にいたい」からだった。家には中学1年生だった公太さんの部屋があり、棚いっぱいに、大好きだった漫画雑誌が並ぶ。「帰ってきてほしい」。そう願い続け、語り部となって体験を伝え続けている丹野さん。その想いを聴いた。
亡くなった子どもたちを忘れないで
大学の講義で閖上を取材する機会を得て、「閖上の記憶」という震災の伝承施設や旧閖上中学校の犠牲者の慰霊碑などを巡って話を聴いた。語り部の活動をしている丹野さんは、あの時、すぐ近くにいた公太さんと離れ離れになり、その後、津波が何もかもをのみ込んでしまった。
私には簡単には受け止めきれない体験であった。しかし、丹野さんは何度も「忘れてはいけない」「なかったことにしない」という言葉を口にした。公太さんへの想いが丹野さんを突き動かしている、と私には思えた。
私は初めて「閖上」という場所に行ったのだが、本当にここに津波が来て、何もかも流されてしまった、と聞いて想像がつかなかった。新しく、きれいな街ができているからだった。丹野さんが公太さんと義父母も亡くしたこと、家を流されてしまったこと、公太さんと同じ閖上中学校の生徒が14人も津波の犠牲になってしまったことも。
「震災の直後から、生きている人が優先にされ、亡くなった人たちに何かしてあげることができなかった」「忘れられてしまうのではないかと思った」。丹野さんはそう語った。私にはその言葉のどれもが悲しく、悲惨なものであった。
そんな想いから、丹野さんは中学生14人のための慰霊碑を、遺族の有志たちと建立した。訪れる人に触ってもらい、常に温かい慰霊碑なのだという。「亡くなった子どもたちをいつまでも守りたい」という丹野さんの言葉に、私は心を揺さぶられた。
「語り合わない」家族の苦しみと優しさ
しかし、丹野さんにも唯一、被災体験を共有して話すことができない人たちがいる。それは家族だという。あの時、目の前で遊んでいたという息子と離れ離れになり、助けることができなかった、後悔の念に苦しんだ―という丹野さんは、「家族でその話をしたら、家族でいられなくなってしまいそうで怖い」とも、教室で打ち明けた。家族の苦しみは一人の苦しみよりも深いのだろう。あえて過去に向き合わず、語り合わないこと。それも震災が残した心の傷の深さなのだと感じた。
丹野さんは公太さんを亡くした悲しみ、悔しさを背負って生きている。しかし、近くにいなかった家族には、どうして公太さんを助けることができなかったのか、と責めたくなる気持ちもあるのだろう。しかし、家族はその感情に互いに触れることなく10年を共に過ごした。
丹野さんは「何も言わない優しさもある」と語っていた。「家族であの日のことを話してしまうと、家族でいられなくなりそうで、『こわい』から話さずいるのです」とも。「その言い訳をするために、語り部をしているのかもしれない」
そう話しながら、丹野さんは公太さんの生きた証を多くの人に伝える日々を送る。津波で流された家を閖上の地に再建し、そこに公太さんのための部屋を造り、大好きだったという週刊少年ジャンプを本棚いっぱいに買い続けている。深い心の傷が癒えないけれど、亡くなった公太さんと一緒に、家族も生きている。
「遺族にならないで」 受け取ったメッセージ
福島県出身の私は、沿岸部での津波の被害よりも、地元で起きた福島第一原発事故についての報道を、切実な関心を持って見てきた。しかし、津波で大切な人を亡くした当事者に出会い、話を聴くことができて、こんなにもつらいものだったと初めて感じることができた。この経験を、私も誰かに伝えたくなった。
丹野さんの語った話で、「絶対に安全な場所はない」という言葉がとても印象に残った。自分の家や家族はずっと変わらずにあると思いこみやすい。しかし、そうではない。あの津波は一瞬にしてすべてを奪った。津波でなくても、土砂崩れや火災が起こるかもしれない。どこも危険は同じだとしたら、かけがえのないの思い出のある場所に、公太さんの部屋がある家を建てた丹野さんのような選択肢もあっていいと思う。
大切なのは「危ないときは逃げる」ということである。丹野さんは「遺族にはならないで」と語っていた。そのメッセージを受け取った私も、家族とともに後悔しないような生き方をしなければならないと感じた。
取材・執筆:若穂囲優華(尚絅学院大学人文社会学群人文社会学類1年)
編集:寺島英弥(尚絅学院大学客員教授、ローカルジャーナリスト)
協力:尚絅学院大学(http://www.shokei.jp/)
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