【大学生が取材した3.11】一変した人生 息子の死をきっかけに「被災地巡礼」

連載:大学生が取材した3.11】「3月11日に向けて記事を書こう」。震災で大きな被害を受けた宮城県名取市にある尚絅学院大学で、ローカルジャーナリストの寺島英弥さんがそんな目標を掲げた実践講座を催しました。「震災を知らない世代」といわれる若者たちが、地元名取市の被災地・閖上の語り部の女性、原発事故の心の傷を癒す医師らと出会い、取材者として話を聴き、その声を伝えるすべを学び、「わが事」と思いを重ねて記事づくりに取り組んだ力作の中から、4点をご紹介します。

【木村篤耶(尚絅学院大学2年)】2011 年3月11日に起きた未曽有の東日本大震災。その津波は東北の太平洋沿岸のあらゆるものを吞み込んだ。荒セツ子さんは、名取、岩沼両市にまたがる仙台空港近くで警察官だった息子を亡くした遺族の1人。荒さんはその年から、遺体が見つかった3月15日にちなみ、月命日の15日になると現場周辺を歩き、温めた水をあげて祈る「巡礼」を続けてきた。それはなぜなのか。その思いを聴いた。

しっかり者だった息子の死、母の憤り

荒さんの息子である貴行さんは、岩沼警察署に務める巡査長だった。彼は、「一番最初に自分たちがダメになってはいけない」との行動理念を掲げる、責任感の強い性格の持ち主。震災発生後に出動を命じられ、仙台空港(名取市・岩沼市)の近辺で避難誘導を行っていたという。しかし、同僚の警部補らと共に行方不明となってしまう。大津波が内陸の仙台空港まで押し寄せたのだ。

その後、浸水した付近の工場の工場長が貴行さんの警察手帳を発見。そして4日後には貴行さんが遺体となって、母親と対面したのだった。荒さんは息子の上司たちに「なぜ、若い人たちを助けなかったのか。なぜ上の者が行ってやらなかったのか。」と激しい怒りをぶつけたという。

「息子に会う旅」 亡くなった人々への願い

荒さんは、貴行さんが見つかった3月15日を「命日」と心に決め、月命日の毎月15日の午後2時46分から、仙台空港から遺体発見現場の工場まで歩き、祈りを捧げてきた。震災の年に始まり、途中、慰霊碑や墓地に立ち寄りながら、震災によって亡くなった人々を悼みながら歩く巡礼になった。

体温ほどに温めた水をリュックに持参し、慰霊碑に刻まれた、亡くなった一人一人の名前に注いでは手を合わせている。「寒い日に、この世のものとは思えない冷たい水 の中で亡くなった方々が、寂しい思いをされないようにしたい」。そのような思いを胸に、震災で変わり果てた地域を巡り続ける。

草むらとなった被災地の家屋跡で、亡くなった女性に祈りを捧げる荒セツ子さん=2020年10月15日

そして、これらの行動を「息子に会う旅」と語る。また、彼女は震災で同様にわが子を亡くした母親らの集まり、仙台の「つむぎの会」、岩沼の「灯里(あかり)の会」にも毎月参加している。

その仲間たちは、「わが子の出生と死後の表情を見ている」という悲しみと、わずか一瞬で平穏な日常が壊されてしまった、という共通点で結ばれている。荒さんは、巡礼してきた現地で別の遺族たちにも出会い、その亡き家族にも「温めた水」をあげる。「あの日、冷たい水の中で逝った苦しみは同じ」だから。

変わる被災地の風景、震災遺構の消失

コロナ禍でやまなく中断しながらも、荒さんが毎月通い続けてきた被災地。そこには、震災の悲惨さを伝えるために持ち主が残した民家の遺構も存在していた。また荒さんは、27歳でこの世を去った櫻井佳奈さんという女性も知った。ほとんど草原となってしまった家の跡にたたずみ、彼女の部屋だった場所に置かれた小さな慰霊の石にも手を合わせた。

しかし、その地域は工場などの建設予定地となっており、急ピッチで造成工事が進み、民家の遺構も、佳奈さんの家の跡もなくなってしまった。荒さんのように被災者を悼む人がいることを知る一方で、このように被災地の記憶を伝える風景の消失が起きていることに、私は不安を抱いている。

それでも荒さんは、命ある限り、巡礼の旅を続けていくという。

取材・執筆:木村篤耶(尚絅学院大学人文社会学群人文社会学類2年)
編集:寺島英弥(尚絅学院大学客員教授、ローカルジャーナリスト)
協力:尚絅学院大学(http://www.shokei.jp/

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