震災から12年 “伝承・継承のカタチ”を求めて 「メディフェスせんだい」からの提案

東日本大震災から12年。一めぐりの3月11日が過ぎた東北の被災地では「復興」に伴う風景の変貌、記憶のよすがとなる遺構の消失、震災後の住民離散、「記念日」に偏る報道などさまざまな要因で、震災の記憶の伝承・継承が難しくなっている。終戦の日や原爆忌のように年一度、追憶される記念日があってよいのでは、という声も聞くが、当事者には変わらぬ心の傷、終わらぬ現実がある。「そのギャップが大きくなっている」、「いま伝えなくては消えてしまう」―そんな危機感から「伝承・継承」への知恵を集めよう―という試みが、このほど仙台市で催された「メディフェスせんだい」(3月18~19日)であった。各地から集った人々の体験と議論を報告する。 (寺島英弥・『伝承・継承のカタチ』コーディネーター) 

当事者でなくとも伝承者に 

「伝承・継承のカタチ」と題されたセッションのテーマは、まず「当事者でなくては、伝承者になれないのか?」。 

登壇者の一人が尚絅学院大(名取市)3年の蛸井翔太さん(21)。鶴岡市出身で、東日本大震災が起きたのは小学3年の時。下校後の児童館で揺れを感じ、それからの停電、ガソリンスタンドに並んだ車列、品物がなくなったスーパーマーケットの光景が震災の記憶にあるという。 

大学の授業「実践講座・当事者とつながる学びとスキル」の受講生。同市の被災地・閖上の被災者で、震災から6年後に帰還した閖上中央町内会長、長沼俊幸さん(61)への現地取材とインタビューを重ね、3月11日に向けた記事を執筆した。 

蛸井さんが実践講座で書いた記事(『震災から12年、閖上の被災者が考える「伝承」とは』)は、閖上にある名取市震災復興伝承館について、資料展示と市職員のガイドという内容から、震災を実体験した地元の語り部に委ねるべき―という長沼さんの思いを掘り下げ、「人が語り伝える」ことが本当の伝承である、と説いた。 

震災前から唯一、閖上に残る日和山で、尚絅学院大の受講生たちに語る長沼さん=2022年10月22日

次にマイクを握った長沼さんは、蛸井さんら受講生たちや、閖上を訪れる若い世代にまず、1933(昭和8)年3月3日に起きた「昭和三陸大津波」の石碑(高さ2メートル余り)を見せている、と語った。 

宮城県から北海道まで3千人を超える死者・行方不明者を生んだ昭和三陸大津波。閖上に大きな被害はなかったが、当時の住民は〈地震があったら津浪に用心〉と刻む石碑を立てた。子孫への警告だったが、「閖上に津波は来ないと地元で言われ、父親からも聞かされた。あの3月11日の2日前にあった大きな地震で津波注意報が出たが、誰も逃げなかった。そして800人近い住民が犠牲になった」と長沼さん。 

「12年経って遠くの出来事と思われるが、学生は真剣に聴いてくれる。昔の閖上がみんななくなった日のこと、それから私たちが体験した仮設住宅での生活から、新しいまちづくりまで」。石碑の話には、二度と忘却されぬよう願いをこめる。 

長沼さんはいま、町内会長として閖上の再生に努めながらも、「新らしい街で、住んではよいが、どうしてもなじめない。子どものころから知っている閖上ではないから」と埋められぬ心情を口にした。その喪失感もまた震災が残したものだ。  

現在の閖上にはきれいな住宅地や広い道路が整備され、津波の跡をしのばせるものはない。が、蛸井さんは語った。「長沼さんの話を聴いて、まだ震災を乗り超えられぬ人がおり、かつてのような住民のコミュニティーも生まれていない、といった課題を知り、震災は過去でないと感じた。まだがれきがあっや閖上を父の車で見に来たことはあるが、体験者にじかに話を聴き、考えたことで、初めて自分事になった。それをまた他の人に伝えることで、自分も当事者になりうる、その資格を持てると思った」 

神戸と広島の「新しい当事者」たち 

神戸市から参加した藤本真一さんは、1995年1月17日の阪神淡路大震災を10歳で体験。それから20年目の2014年、30歳の若さで、追悼行事を催す「阪神淡路大震災1.17希望の灯り(HANDS)」の2代目代表理事に選ばれた。「東日本大震災がなかったら、私はここにいない。津波の映像を見て、自分にも何かできることはないか、と思い立ったのが参加のきっかけ」と語った。神戸の被災地の火を受け継ぐ「希望の灯り」も、毎年3月11日、東北の10カ所の被災地に届けられ、分灯されている。 

震災の第二世代といえる藤本さんの就任以来の取り組みの一つが、「世代間・年齢差を埋めていく」ことだという。今年も同市中央区・東遊園地での追悼式典「1.17のつどい」には5万人が集まった。「私たち市民が勝手に続けている追悼行事。そこに集った人が語り合い、語り継いでいく場です。そこに大勢の若い人たちが参加し、いろんな形で自由に発信している」と藤本さん。 

有名になった竹灯ろうは約1万本。竹を採り、作っているのは年配の震災経験者たちだ。「若い世代との間には溝もあり、経験の有無の話では当事者に勝てない。いまの時代からは、電話や掲示板しか発信手段がなかった当時を理解できない面もある。そこで私たちは、誰でも作って参加できる『紙どうろう』を広め、SNSを活用した追悼の場をつくり、子どもたち向けの手持ち花火の企画を催し、若い世代が語る場、発信する場を広げた」。参加する誰もが、新しい伝承者になれるという。 

2023年3月11日の閖上で。神戸から届けられた「1.17希望の灯り」の分灯で竹灯ろうに火をともす

もう一人の登壇者、久保田涼子さんは「第三世代が考えるヒロシマ『』継ぐ展」代表。『』はカッコと読み、原爆の被爆地、広島へのそれぞれの人の思いが入る。広島市に生まれ、東京でウェブのデザイナー、クリエイターの仕事をし、被爆70年に当たる2015年に「継ぐ展」を立ち上げた。活動のきっかけは東京で、被爆後の広島を舞台にした『父と暮らせば』(井上ひさし作)の朗読劇上演への方言指導を頼まれたこと。「地元の出身でない女優さん二人が、熱い思いで広島のことを学び、伝えようとする姿に打たれました」 

久保田さん自身も、当事者の世代ではないところから模索した。広島の小中高校での平和学習の体験だけで、「いま何をどう伝えたらいいか、悩んだ。東京の仲間たちに相談したら、『一緒にやりたい、まず広島へ行って学習し直そう』と活動が始まりました」。平和資料館などを巡り、被爆体験をした祖母(一昨年、94歳で他界)らの話に初めて耳を傾け、知らなかったことを学び直し、考え、議論した。 

「継ぐ展」は、東京、神奈川、そして仙台で開催。久保田さんらが続ける「ヒロシマの記憶を継ぐ人インタビュー」の展示、原爆の絵本展、体験者との対話や、伝承しようとする自分たちも来場者と戦争などについて語り合った。「私たちは何も知らない。でも、自分たちが歩んだ軌跡を追体験してもらおう、との思いでした」 

コロナ禍の2020年にはウェブを生かし、広島と学校の教室をつなぐ「オンライン修学旅行」を企画、世界から参加できる「オンライン灯ろう流し」も実現させた。 

若者が集う場づくりが継承を生む 

遺構とは、災害や戦災の記憶を世代を超えて伝える最大のメディアではないか。だが、東北の被災地では大規模な復旧復興工事とともに遺構はほぼ消え、行政主導の伝承施設が造られた現状がある。そこには蛸井さんが書いた閖上の事例のように、当事者から離れた存在も多い。 

「神戸では、神戸港メリケンパーク旧岸壁が唯一の遺構。行政にとって震災遺構は『失敗』の象徴であり、全部つぶされた」と藤本さん。「でも、大事なのは語り合う場をつくること。夏の大ヒット企画になった『神戸希望の灯り花火』は、『希望の灯り』の種火で800人の子どもに5000本の手持ち花火を楽しんでもらった。花火と語らいが、『ああ、あれは震災の追悼だったんだ』と振り返る記憶になって未来につながればいい」。それが新しい伝承の形になり、伝承のメディアになる。 

広島には世界遺産の原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)があり、被爆の惨禍と核兵器廃絶を世界に発信し続ける。保存を市議会が決議したのは1966年のこと。崩れかけて、解体を求める声もある中、被爆し亡くなった女子高校生の日記につづられた保存への願いが、市民を動かしたという。 

最近、保存が決まった赤煉瓦の旧陸軍被服支廠。軍服・軍靴作り、被爆後は救護活動が行われ、多くの人が亡くなった。元学徒動員生の中西巌さんが保存を訴え、「継ぐ展」に集う大学生らも発信の活動に参加した。「市民の議論が広島ではいまも続いている」と久保田さん。「継ぐ展」は市内に点在する遺構を「ピーススポット」と名付け、デジタルスタンプラリーも開催、「知らない、を知ろう」と参加を呼び掛けた。若い世代が集う場づくりが、広島でも伝承・継承につながっている。 

メディフェスせんだいの「伝承・継承のカタチ」セッションから=2023年3月18日、せんだいメディアテーク

閖上では、津波で失われた町を伝える遺構が残っていない。唯一、震災前から変わらずにあるのが、漁師らが海と天候を眺めたという日和山(海抜6・3㍍)。長沼さんは被災後毎日のように、子どものころ遊んだ日和山に登ったという。「どこからともなく地元の仲間が寄りあい、昔の話をした。楽しみで通ううち、全国から訪れる人が日和山に集い、涙を流し手を合わせ、そこで自然と私は話をするようになった」。閖上の人には当たり前の存在だった日和山は、貴重な集いの場になった。 

それだけではない、と長沼さんは言う。「閖上にいた人のどの家庭にも、昔の家は流されても、一つは思い出のこもったものが残っている。それが遺構に当たるものではないか。そんな『小さなものたち』の話を、これから私はしていきたい」 

長沼さんが語る懐かしい閖上は、よそから訪れる者の目に見えないけれど、新しい街並みとともに、そこにあり続けている。そのどちらにも人々は生きており、ゆえに心が引き裂かれる。「子ども時分の私には嫌なものだった漁網干しの匂いも、いまは懐かしい閖上の匂い」といった記憶の一つ一つを、震災前を知らない若い世代が聴いて知り、記録し外へ発信し、「見える」ようにしていく場づくり。それこそが伝承・継承になり、私たち市民メディアがこれから果たせる役割にもなる。 

被災後、かさ上げされた閖上に生まれた新しい街=2023年3月11日

被災地、被爆地の地域を超えた交流を 

こうした議論を通じて、参加者で一番若い世代の蛸井さんは「神戸、広島の伝承・継承の実践を学べて、楽しそうな、新しい在り方があることを知った。私より年下の高校生、中学生たちに、正しく楽しく『知ること』を伝えていけたら」。 

蛸井さんは、尚絅学院大学で震災翌年、閖上の人々の支援を志す学生たちが旗揚げしたボランティアチーム「TASKI」のメンバー。昨春にTASKIが催した閖上へのバスツアーに参加し、被災地との出会いをきっかけに自らも一員になった。「その後のコロナ禍のあおりで、バスツアーの募集や、閖上の人たちと続けていたお茶会も中止になり、残念な思いをした」と語り、新たな出会いと交流に期待を込めた。 

長沼さんら閖上の住民は仮設住宅にいた2012年、神戸から支援に訪れた高橋守男さん(元ひょうごボランタリープラザ所長)らとの交流が生まれた。いまも毎年3月11日と8月15日、神戸から閖上に「1.17希望の灯り」の分灯と竹灯ろうが届けられる。長沼さんも1月17日に神戸を欠かさず訪れ、共に手を合わせている。「震災で失ったものは多いが、震災があったがためのつながり。何十年来の友だちづきあいのようだ。神戸から学んだことは数多く、それも子や孫に伝えるべきもの」 

久保田さんは、5年前に仙台で「継ぐ展」を催した際の忘れられない出来事があると語った。「東日本大震災で被災した方々がたくさん会場を訪れてくれた。そこで『この企画は、50年後、60年後の私たちの伝え方ですね』という言葉をもらった。とてもうれしかった。広島も仙台もつながっているんだ、と思いました」 

被災地、被爆地は学び合える、つながり合える、新しい伝承・継承のカタチを生みだせる。そんなメッセージが、仙台から発せられた。 

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