【連載:陸前高田 h.イマジン物語】東日本大震災で店舗が流出し、2020年に復活した岩手県陸前高田市のジャズ喫茶「h.イマジン」。ジャズの調べとコーヒーの香りに誘われて、店内には今日も地域の人々が集います。小さなジャズ喫茶を舞台に繰り広げられる物語を、ローカルジャーナリストの寺島英弥さんが描きます。
【寺島英弥(ローカルジャーナリスト、名取市)】陸前高田市のジャズ喫茶「h.イマジン」を1年ぶりに訪ねました。再会した主人・冨山勝敏さん(81)は健在。JBLの大スピーカーから流れるジャズを堪能しながら、東日本大震災の大津波からの再起など「七転び八起き」人生譚の続きを聴きました。筆者の事情にて第11回で中断していた連載「陸前高田h.イマジン物語」(第11回『膨らむ「3代目」の店への希望』参照)を再開します。
がれきも消えた街の跡
2011年12月28日。当時河北新報の編集委員だった筆者は、やはり被災地の大船渡市内で取材があり、その帰り道、隣の陸前高田市に寄って冨山さんと「午後2時に『マイヤ』 (地元のスーパー) の前で待ち合わせよう」という約束をしていた。
マイヤ(本店・大船渡)は陸前高田の中心部にあった3階建ての大型店だが、この年の3月11日に街を襲った津波が屋上近くまで達し、建物は無残に大破し、鉄骨の柱や梁がむき出しになっていた。見渡す限りの四方からは、街の跡を埋め尽くしていた膨大ながれきが撤去され、ビルの廃墟もぽつんと数えるほどになっていた。
立ち入り禁止の黄色いロープが店の入り口に張られていたが、私は構わずコンクリートの階段を上り、津波で吹き抜け状態になった各階の売り場の惨状を眺め、海の砂を踏みしめながら屋上に着いた。そこから見えたのは、途方に暮れるほどの虚無の空間の広がりだった。土色の荒野、あるいは白地図に戻ったような街の跡には、大規模な区画整理事業による復興計画が描かれていた。
神戸の倍以上の規模の再開発計画
その概要と当時の地元の空気を伝える河北新報の記事を読んでみよう。
陸前高田市の場合、海沿いの低地は原則的に居住を認めない公園や産業ゾーンとし、線路の内陸側を5メートルかさ上げするなどした高台に新たな市街地を形成する。
区画整理はしかし、事業完了までに長い年月を要するのが難点。多種多様で複雑に絡み合う権利関係を、一つ一つ解きほぐすように調整しなければならないからだ。事実、阪神大震災後に兵庫県内の20地区で進められた区画整理が最終的に完了したのは昨年3月末。震災発生から実に16年を要した。しかも20地区を全て合わせても255ヘクタールにすぎず、陸前高田市の半分にも満たない。
2012年2月23日の河北新報連載『東北再生 あすへの針路(12)』から
この記事の末尾には、神戸大の塩崎賢明教授(都市計画)の「長期戦に耐えられる住民ばかりとは限らない。元の住民が3分の1しか残らなかった地区もあった」という述懐がある。後の陸前高田の「復興」の行く末を予言し、それは冨山さんの人生をも巻き込むことになる。
仮設商店街のジャズ喫茶「ジョニー」
スーパーの屋上から見ると、真冬の午後の日差しの下、動いているものは整地作業をするブルドーザーと、がれきを一ヵ所に集積した巨大な山の周囲を行き来するダンプカーの群れ。街の未来の姿を想像することもできず、呆然としていると、携帯電話に着信があった。冨山さんの声が「マイヤって、(陸前高田市)竹駒町の仮設店舗の方だよ。そっちじゃ、お茶も飲めないじゃないか」。
竹駒町は、冨山さんが大船渡市碁石海岸に開いた店を失った(連載第7回『初代の店消失、「でも何とかなるさ」』参照)後に、友人の紹介で借家暮らしをした気仙川沿いの山あいの地区。プレハブの仮設商店街が生まれており、マイヤの仮店舗もオープンしていた。
赤いジャンパーの冨山さんと腰を落ち着けた先は、仮設商店街の一角で9月から営業を再開していた老舗のジャズ喫茶「ジャズタイム ジョニー」。狭い店内にライブのポスターが張られ、レコードのジャズが流れ、外界の光景をひととき忘れさせる空間が小さいけれど生まれていた。やはり被災者となった店主、照井由起子さんは、復活を応援しているのだろう常連さんたちと談笑しながら、コーヒーにクッキー、チョコレートを添えて私たちに運んでくれた。そこでちょっと照井さんの近況も伺えた。それから冨山さんは、h.イマジンの復活、新しい店づくりに向けた話が進展していると語った。
思いは、2度目の3月11日の開店へ
「(店の再開を勧めてくれた)友人のオーナーが経営する大船渡の立根町のブティックに店作りをしよう、と準備は進んでいて、あの日からちょうど1年の来年3月11日にオープンさせるつもりだよ」
「年明けの1月中旬からペンキ塗りなどの内装工事に入り、2月下旬には内部のセッティングを始める。木製の4段のレコードラックを特注していて、それを12セット並べるんだ」
冨山さんの目が若者のように輝いていた。被災地支援の活動に来た京都のジャズスクールの先生から「仲間のボランティアを募って、(冨山さんが全国から寄付を受けた)5千枚のレコード整理を手伝いたい」との申し出をもらったという。「新しいh.イマジンで、ライブをやりたい」という気の早い話も3件舞い込み、「勝手にやってもらっていいよ、と言ってあげた」。
「思えば、ちょうど1年前は(津波で流された)2代目の店が開店したころだった。その1年前の今ごろは、まだ碁石海岸の店にいたんだなあ。夢のようだ」
「人間は最悪でも、寝る所と一日の食べ物があれば生きていける。それができると分かったら、後は元気が出るばかりだ。ほそぼそとでもお金があれば、生きる楽しみを見つけられる。この年になっても、初めて知ることはたくさんあるんだ」
悲しみと喜びが交錯するであろう、あれから2度目の3月11日に向けて、冨山さんは再出発の準備を進めている。 (次回へ続く)
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