【陸前高田h.イマジン物語⑤】空に飛んだ一枚のレコード

【連載:陸前高田 h.イマジン物語】東日本大震災で店舗が流出し、2020年に復活した岩手県陸前高田市のジャズ喫茶「h.イマジン」。ジャズの調べとコーヒーの香りに誘われて、店内には今日も地域の人々が集います。小さなジャズ喫茶を舞台に繰り広げられる物語を、ローカルジャーナリストの寺島英弥さんが描きます。

避難所で淡々と微笑

寺島英弥】東日本大震災の津波から9日目の2011年3月19日。陸前高田市の避難所だった市立一中体育館を当時河北新報記者の筆者は訪ね、ジャズ喫茶「h.イマジン」の主人、冨山勝敏さん(79)と出会った。現地を取材中、地元支局の後輩から「おつきあいのある、東京からIターンし たジャズ喫茶店主がいま避難所にいる。どうされているか。声を掛けてもらえたら」と頼まれたのだ。

体育館では1200人余りの住民が避難生活を送っていた。支援品のマットや布団が敷き詰められ、そのわずか数平方メートルの一区切りが、着の身着のままに津波を逃れた被災者たちの「家」になっていた。

避難所になった一中体育館=2011年3月19日、陸前高田市(筆者撮影)

多くの家族が肩を寄せ合い、疲れ切った表情で横たわる。まだ冬の冷え込みが残り、密閉された集団生活の中でインフルエンザも発生し、「赤十字」のビブスを付けた医師たちが健康状態を尋ねて回っていた。そんな中で一人、穏やかにあぐらをかいた白いひげの男性がおり、仙人のようにも見えた。冨山さんだった。

「こんな状況で日に三度の食事と、デザートやペットボトルの水も出してもらえる。たまたま取材に来たテレビに映って、消息を知った友人知人も訪ねてくれる。この先のことは全く『白紙』だけれど、こうして生きている。何の不安もないよ」

「東京オリンピックのころ、古里の郡山(福島県)の高校を出て、東京でフーテン生活を送ったんだ。そこに戻って出直すようなものさ」

被災した人を前にどう言葉を掛けてよいか分からなかった筆者に、冨山さんは淡々とした微笑を浮かべて語った。

やはり流されていた店

翌20日の朝、もう一度一中体育館に立ち寄ると、冨山さんは、「店が流されたと人づてに聞いたが、まだ避難所の外を見ていないんだ。どうなったのか、行っていようと思う」と立ち上がった。

体育館を出ると、高台にある一中の門の外は、津波で流された家々の残骸や、ひしゃげた車などで埋め尽くされ、そんな被災地の光景が街へ近づくごとに広がっていった。

自衛隊が緊急支援活動で開いた道路では、重機でかき分けられたがれきが3メートル近い高さで両側から迫る。急ごしらえの道を、遺体の捜索をする警視庁の機動隊の一団や、わが家のあった場所を呆然と探す家族らがすれ違う。

しょう油醸造の八木澤商店の高い煙突だけが、まるで広島の原爆ドームのように残り、建物が消え去った街は現実のものとは思えなかった。そして、津波が残した海底の泥が乾いて細かな粒になり、すさまじい砂埃になって目鼻やカメラにも入り込み、マスクなしでいられなかった。

「h.イマジン」が立っていた石垣。建物は消え去っていた=2011年3月20日、陸前高田市(筆者撮影)

冨山さんは本丸公園のある小山を目印にして、連載4回目で紹介した洋館風のh.イマジンが立っていた古い石垣を見つけた。店はやはり流されていた。玄関などの太い柱はもぎ取られ、店の正面に造られた広いウッドデッキも、根元部分の金属の留め金がすべて同じ方向に引きちぎられていた。「夏にビアガーデンをやろうと言っていたんだ」と、冨山さんは静かな口調で言った。

敷地には海の乾いた砂が積もり、その隅に、本丸公園の神社参道にあった石の狛犬がごろりと横たわっていた。

もう過去は振り返らない

店の名残と言えるものは、丈の高い赤い革張りのいすが一脚だけ。「六脚セットで店のカウンターにあったものだ」という。もう少し探してみると、黒く丸い物が落ちていた。ジャケットがなくなったLPレコードだった。ジャズファンなら知っている黄色い「PRESTIGE」レーベルの、『quiet Kenny』(静かなるケニー)。名トランぺッター、ケニー・ドーハムが1959年、トミー・フラナガンらとのカルテットで吹き込んだ名盤だ。

裸のレコードはきれいで傷もなく、「冨山さん」と筆者は声を掛けて手渡した。大切な店の形見だと思ったからだ。小さな奇跡かもしれない、という感傷もあった。冨山さんは、ちょっと懐かしむように手に取った後、それをぽいと晴れた空に飛ばしてやった。あっと思う間もなく。「もう過去は振り返らない」。きっぱりとした言葉に送られ、レコードはどこかに消えた。 

裸のレコード盤を手に、店の跡にたたずむ冨山さん=2011年3月20日、陸前高田市(筆者撮影)

「ここの土台は大丈夫そう。津波の廃材などを使ってもいい、ここに掘っ立て小屋を建てて、やり直しだ」と、冨山さんは言った。

「ここは、私が終の棲家にしようと決め、人の縁ができた土地。これからしばらく、みんな苦労の日々が続くけれども、心を癒せる場所をつくるのが次の仕事だ」

店の跡に積もった海の砂の下のあちこちから、緑色の水仙の芽が伸びていた。

店の跡の砂の下から芽吹いたスイセン=2011年3月20日、陸前高田市(筆者撮影)

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