【連載:陸前高田 h.イマジン物語】東日本大震災で店舗が流出し、2020年に復活した岩手県陸前高田市のジャズ喫茶「h.イマジン」。ジャズの調べとコーヒーの香りに誘われて、店内には今日も地域の人々が集います。小さなジャズ喫茶を舞台に繰り広げられる物語を、ローカルジャーナリストの寺島英弥さんが描きます。

新聞の求人広告から

寺島英弥】「日本の戦後復興の象徴」と称され、アジアで初めてとなる東京オリンピックが開かれた1964年。開催期間中(10月10~24日)、5万人もの来日外国人が滞在した国際化時代の幕開けであり、迎え入れるための顔となる巨大ホテルが続々と生まれた時代でもあった。

宿泊需要を見込んで、ホテルニュージャパン(60年)、銀座東急ホテル(同)、パレスホテル(61年)、ホテルオークラ(62年)、東京ヒルトンホテル(63年)が開業し、「それでも足りない」という国や経済界の後押しで、五輪開幕が迫る9月1日、ホテルニューオータニ、東京プリンスホテルが並んでオープンした。

その翌65年夏。化粧品訪問販売の高成績で「世の中、面白いかもしれない」と思い始めた冨山さんが、何気なく開いた新聞で目に留めたのが、東京プリンスホテルのスタッフ募集の広告。開業準備の頃はどこも大人数の採用が普通だったが、この時は「採用予定1名」。不足のスタッフ補充のためか、「珠算3級の試験を行う」とあった。5年前に古里郡山市の商業高校を出た冨山さんは珠算、商業簿記の1級を取っていた。「ホテルの裏方のような事務室での試験を軽く暗算で解き、面接では『社員になって、やる気はあるか』を問われた」。そこから経理部長の机の前に連れていかれ、「好きな言葉はあるかね」と質問された。

「『為せば成る』(上杉鷹山の遺訓の一節)と答えたけれど、それに続く言葉を思い出せなかった。それでも気に入られて、『あしたから来い』と、その場で採用が決まった」

20歳を過ぎた頃のサングラスの冨山さん。東京から郡山市の実家に帰省した折、兄弟との写真

就活生であれば、うれしさと緊張で有頂天になるところだが、冨山さんはポケットのお金を心配した。「(世田谷区)豪徳寺のアパートに友だちと2人暮らしをしていたのだが、帰るにも、翌日に出勤するにも、その電車賃がなかった。破れかぶれで『(給料を)前借させてもらえませんか』とお願いしてみたんだ」。すると経理部長は「お前なあ~」と、あきれ顔をしながらも、財布から、ぽんと1万円札を渡してくれた。こちらがびっくりした。

この話には続きがあった。「アパートに帰ったら、相棒が彼女と2人でいて、同棲するつもりらしかった。次の日、『こんな事情で帰りずらい』と部長に話すと、近くの寮を紹介してくれた。木の二段ベッドからのスタートだったが、人生、そこから変わったんだよ」

五輪から万博へ、ホテル・ラッシュ

〈緑豊かな芝公園と東京タワーに隣接する、部屋数510の白亜の大型ホテル〉〈「五輪をきっかけに、世界に飛躍するホテルになる」との決意を込めて、「東京プリンスホテル」と命名された〉〈ホテル地下1階には、海外の一流ブランドの商品を扱うブティックサロン「PISA」が同時にオープン。ファッションデザイナーら多くの有名人が来店し、白地に「PISA」のロゴが入った紙袋は女性たちの憧れとなった〉(2017年6月3日の毎日新聞『ぐるっと首都圏・HOTEL夢のひととき』より) 

東京・港区芝公園に開業した東京プリンスホテル(当時の同ホテルの絵葉書)

最初の配属先は、レストラン・キャッシャー課。「スペイン料理のレストランではメニュー表からスペイン語で、びっくりして一生懸命に覚えた。パエリアやウズラの丸焼きなど、料理も初めて見るものばかりで、恐る恐る食べてみたら美味で、その経験が今も大きな財産になっているよ」

1年が過ぎると「フロントに下りてこい」と命じられた。半分くらいのスタッフは外国人で、いきなり「英会話、少しくらいできるんだろう?」と上司から言われた。寮のベッドで、寝入っている夜勤の同僚を気にしながら、ラジオのNHK基礎英語講座を勉強した。

東北出の若者が飛び込んだホテルはきらびやかで、世界につながっていた。BOAC、エールフランス、パンナム、シンガポール航空をはじめ名だたるエアラインのクルーが行き交うように宿泊し、女性乗務員たちがお洒落できれいなのに、びっくりした。「毎日あんな人たちを眺めて給料をもらえるんだから、疲れた、なんて一度も言ったことがなかった」

東京五輪が終わると、やがて70年に大坂で開催される初の「万国博覧会」を次の合言葉に、ホテルの建設ラッシュは地方の都市へと広がった。冨山さんも多忙を極めてゆく。

「そのころ、プリンスホテルの全国展開の新規プロジェクトは、新設とリニューアルを合わせて17カ所もあった。その応援スタッフに『現場をよく知っているやつがいい』と、私も選ばれたんだ」

システム開発を担う日々

そのころ最先端の課題が、コンピューターによるホテル業務管理システムの開発だった。「提携したコンピューターメーカーに1年間、寮から通って勉強し、現場で経験している仕事の流れを基にプログラムの基本言語を使って、今でいうアプリケーションを作る仕事をした」 

69年には高輪プリンスホテルに異動し、予約マネージャーに。そこで冨山さんが関わったホテルコンピューター会計システムが国内の業界に先駆けて稼働した。蓄えた専門知識に加え、さまざまなアイデアを提案する冨山さんにはそれからも「彼を次のプロジェクトに貸してくれ」と各地の現場から派遣のリクエストが相次ぐ。「あのころはスーパーマンのようだったな」と冨山さんは思い出して笑う。「私は同期生のいない一兵卒だったので、『あいつは何者だ?』、『オーナーが引っ張ってきた男か?』と勝手にうわさされたよ」

ホテルマン人生でとりわけ大きな仕事になったというのが、現在も全国のビジネス客から重用される品川プリンスホテル(78年開業)の立ち上げプロジェクト。「システムの設計・運営からスタッフ新規採用まで任された」。高輪時代から「こんなものが欲しい」と開発に携わった、コンピューターによる予約システムもそこで実現した。オープン前はシステムのテストも重なり、一睡もできないような忙しさだったという。

宿泊部門を統括するマネージャーとなり、1000室を超える客室をいっぱいにすることが毎日の目標になった。「最初は半分しか埋まらなかったが、受験期になったら予約がどどっと入り、評判が広まって平日もビジネス客の予約が順調になり、稼働率はグループでもトップクラスに。『今日の稼働率は98%でした』と報告すると、『なぜ2%残ってるんだ』と聞かれたほどだった。泊り客のデポジット(フロントの預かり金)の1万円札が山のように積もったよ」

面白い経験こそが財産

冨山さんのホテルマン時代は、50歳で早期退職する91年まで続き、最後の10年はバブル経済とも重なり、日本のホテルの黄金時代と言えた。「新しいプロジェクトを次から次へと経験できたことは、一番の財産になった。時代を代表する建築家ら、その道の第一人者たちとプロジェクトの会議の席を共にし、いろんな斬新な考え方、イメージの描き方、ものごとを実現する段取りなど、給料をもらって学んだようなものだ」

「自分の子どもにも『勉強しろ』なんて一度も言ったことはない。面白い!という経験こそが学び。それを生かせばいい。人から学歴を問われると、私は『OJT大学』と答える。私はいつだって、今だって『OJT大学』の学生だよ。知らないことでも、教えてくれる人はまわりに必ずいる」

*OJTは“ON THE JOB TRAINING”(現場教育)の略

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