津波で両親を失った岩沼市の男性、語り部に 地元の会の高齢化を知り、14年目の新たな出発  

寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】小林治身さん、64歳。岩沼市の「いわぬま震災語り部の会」の新しいメンバーだ。東日本大震災の津波で両親を亡くし、助けられなかったことを悔やみ、同じ遺族たちや教会の人々との出会いを心の支えにしてきた。昨年、地元の震災追悼行事で語り部の会と出会い、会員が減り高齢化した悩みを聞いて、すぐさま参加を決めたという。このほど「語り部デビュー」を果たした男性の心の軌跡を追った。 

何もなくなった古里の風景 

岩沼市の海岸部にある二野倉地区。2011年3月11日の津波で被災する以前、101世帯359人が暮らした農村の面影はどこにもなく、集落跡に開園した観光牧場「いわぬまひつじ村」とバスの駐車場が広がっている。小林さんはその一角にたたずんで、「ここが、私の家の敷地だった。残っているのは昔の道路の跡だけ」と語った。 

真っ平らな集落跡には、ぽっこりと二つの丘がある。震災後、岩沼市が取り組んだユニークな防災対策で、海岸に沿った被災地を10キロ道でつなぐ六つの公園を設け、高さ10~11メートル、計14基の避難場所の丘を築造。全体を防災公園「千年希望の丘」と命名した。二野倉にある丘の一つ(8号丘)に小林さんと登った。 

夕暮れが迫る風景には、遮るものがない海が見え、101世帯(住民359人)あったという家々と田んぼが消えた跡の雑草地を太陽光発電のパネル群が埋めている。しばらく無言で眺めていた小林さんは、丘のふもとにある古い墓地に立ち寄った。二野倉町内会が建立した地元の津波犠牲者19人の慰霊碑があり、そこに「小林富治 七十六歳 小林光枝 七十六歳」と両親の名前も刻まれている。小林さんは、二人が眠る墓前で手を合わせると、13年前にここで起きたことを静かに語ってくれた。 

津波で失われた二野倉の風景と暮らしを、避難の丘の上で回想する小林さん=2024年5月14日、岩沼市(筆者撮影)
津波で失われた二野倉の風景と暮らしを、避難の丘の上で回想する小林さん=2024年5月14日、岩沼市(筆者撮影)

家に残った両親の死と後悔 

一家は41年前、それまで暮らした北海道の釧路から、代々農家だった母の実家を継ぐ事情があり、二野倉に移住した。父は近隣の耕作委託も受けて5~6㌶の稲作を手掛け、釧路の食品会社に勤めていた小林さんは岩沼で会社勤めや道路舗装の仕事をし、農作業も手伝った。妹さんは結婚して家族で同居。平穏な暮らしだった。 

2011年3月11日、小林さんは当時働いていた市内の食品会社の倉庫にいた。午後2時46分の大地震の後、津波の恐れがあると従業員は解散し、小林さんは後輩の車に乗せてもらい二野倉の自宅を見に行った。表のブロック塀が倒れていたが、家は無事で、両親は台所に散乱した食器類などを片付けていた。「あれだけの地震だから津波は来ると思ったが、家でラジオは点けていなかった。消防団や町内会の人たちが近所を回って避難を呼び掛けており、「両親に『逃げるんだぞ』と声を掛けると、『おう』と返事があった」と小林さん。父親の軽トラックも外にあったので大丈夫だろうと思って、私は後輩の家族の安否を確かめるために車で家を離れた」 

津波が襲来した時、小林さんは二野倉から2キロほど内陸の玉浦小学校の近くにいた。後輩が母親の実家の様子を心配して立ち寄った際、小林さんは携帯電話のワンセグテレビで、約4キロ北の仙台空港が津波に襲われている映像を見た。「まずいぞ、逃げなきゃ、と思ったのとほぼ同時に津波が来たんだ」。車を動かそうとしたが、周りも車がいっぱいで動けないところに、四方八方から水が押し寄せた。 

小林さんらは目の前のブロック塀に上り、電柱に飛びついたが、深さ1.3メートルほどあった津波の水に落ちた。また電柱に上って夜11時ごろまで耐えたが、寒さも厳しく、小林さんは偶然空いていた無人の家に上がらせてもらい、後輩は自分の車の中で、寒い不安な夜を明かした。津波の水が引いた翌朝、近くの被災した店の人から教えられて、地元の住民たちが集まっていた玉浦小に向かった。それまで携帯電話で父の番号を何度も鳴らしたが、声は返らなかった。やっと避難できた教室で「両親は逃げないままだった」との目撃談を聞き、深い後悔に襲われたという。 

2週間後に富治さんは家の近くで、光枝さんは2カ月余り後、1キロほど離れた土の下から見つかった。「岩沼市の181人の犠牲者のうち180番目に確認されたのが母だった」。両親、親しかった隣人らの命と共に、小林さんは帰る古里を失った。 

新しい家族のような場に出会い         

「灯里(あかり)の会」。震災の翌年3月に岩沼市で始まった、わが子を亡くした被災者たちの分かち合いの集いで、今も毎月1回、いわぬま市民交流プラザで続いている。「誰もが灯りに集い、傷ついた心を温められる場所」という命名だ。その2回目の集いを取材した筆者(当時は河北新報記者)の記事をひもとくと―。 

<つらい1年を過ごしたが、同じ思いを抱える人がいると初めて知った>、<阪神大震災の後、16年間、亡くしたわが子を思いながら生きる母親もいます』という手紙を神戸からもらった。遺族の痛みは消えることがない。だから、共に生きる仲間ともっとつながれたら>、<灯里の会を、自分が助けられ、次は誰かを手助けする「恩送り」の場にみんなで育てたい>―。こんな参加者たちの声があふれている。 

震災の翌年に生まれた「灯里の会」。当事者たちの家族のような集いだ(中央に小林さん)=2024年4月14日、岩沼市民交流プラザ

その記事の中に、一人住まいの仮設住宅から参加していた小林さんの境遇、心境も記されていた。<新聞で集いを知ったという52歳の男性は、岩沼市二野倉の自宅を流され、とどまっていた両親を亡くした。自身も流されかけ、被災した職場の仕事を失った。『いろんな人がいるだろう、泣かせてもらおうと思った』>。以来、欠かさず通い続けてきたという。「いろんな感情を抱えていた自分にとって、かけがえのないのない場所になった。今も毎月5、6人が顔を合わせ、無事を安堵し、近況を伝え合い、心配し、喜び、理不尽に怒り…。自分にとって家族のような仲間だ」 

同市玉浦にあった仮設住宅にも、小林さんにとって大切な場があった。キリスト教会の牧師が山形から被災者支援で通い、集会所で催した「三浦綾子を読む会」だった。『氷点』『続氷点』や『塩狩峠』など信仰に生きた作家の名作から、「逆境で生き抜く強さを知った」と振り返る。もっと勉強してみたい気持ちが生まれ、遊びに来てと誘われた同市下野郷の「岩沼チャペル」(朴キユソン牧師)にも通うようになって7年になる。聖書を読み、昼食を共にし、語り合う。「そこでも良い仲間たちに出会った。心の傷みを分かってくれ、和やかさに癒されてきた」 

小林さん(右から2人目)が出会った、和やかな「岩沼チャペル」の仲間たち=2024年4月14日、岩沼市下野郷(筆者撮影)

いまぬま震災語り部の会 

小林さんが語り部の活動に触れたのは、岩沼市の震災犠牲者追悼行事があった昨年3月10日。津波の波高と同じという11メートルの慰霊碑がある千年希望の丘相野釜公園で、「いわぬま震災語り部の会」の渡辺良子会長(81)らメンバーが、献花に訪れた人々に語り掛けていた。市内の犠牲者の数と同じ181基の灯りが並ぶ慰霊碑には、小林さんの両親の名も刻まれている。毎年、ここで手を合わせる小林さんと、渡辺さんが話をしたのがきっかけだという。「遺族の方だというので、『あなたもやってはどうですか』と勧めたんです。被災体験をし、身内を亡くした苦しみを知る当事者にこそ、この活動を受け継いでほしかった」と渡辺さんは振り返る。 

地元の語り部は当初、8年前に同市観光課が市民に呼び掛け、有志38人が集った。旅行コンダクターや「エフエムいわぬま」のパーソナリティーをした渡辺さんも「経験を生かしたい」と応募した一人だった。研修会を重ねたが、実際に残ったのは4人。その後もコロナ禍が重なり、各地の被災地で語り部活動が停滞した時期だった。あらためて市民向け見学会などを催し、昨年3月11日に「震災語り部の会」が8人で発足したが、継続して参加するのは70~80代の3人だけになった。 

「話を聴いて、その場で『じゃあ、やりましょう』と言ったよ」と小林さんは話す。「だって今年でもう震災から13年、忘れる人は忘れちゃう。当時の風景はどんどんなくなり、遺構の家や建物は解体されて、造成されたり新しい工場が建ったりしている。被災した住民が暮らす玉浦西地区(集団移転地・約千人)も、年々高齢化が進んでいるから」。まだ若い世代に属する小林さんは新しい役目に出合った。 

相野釜公園の交流センターで今年5月18日、語り部の会の月例会が開かれ、活動予定の打合せの後、初参加の小林さんの研修が行われた。講師役は、副会長の高校講師・青木孝豪(たかひで)さん(71)。震災当時に勤めた宮城県工業高の教え子が、進学を目前にして同市内の家で津波の犠牲になった。その無念から語り部を志したという。 

いわぬま震災語り部の会の研修で、青木副会長㊨の話を聴く小林さん=2024年5月18日、岩沼市相野釜の慰霊碑前(筆者撮影)

慰霊碑の前で語り部活動、始まる 

二人は、来訪者を案内する1時間のコースを歩いた。まず慰霊碑に刻まれた名前をたどって鐘を鳴らし、大地震の地盤沈下で胸の高さまで浮き上がったマンホールの遺構や、震災後に造られた防潮堤の内側に育った「緑の堤防」を見た。千年希望の丘(14基の避難の丘)を結ぶ園路に、13年からタブノキ、シラカシなど約33万7千本の苗が植えられ、高いもので5㍍ほどに育った。「延べ4万人の市民ボランティアが植樹し、私も参加しました」と青木さん。そして、避難の丘の一つに登った。 

「階段は足を踏み外しやすい」と斜面が緩やかな角度で造られ、訪れる子どもたちや年配者も難なく登れる。頂上の東屋は、四方の屋根から風雨や寒さを避ける幕が下り、ベンチには炊事のかまどや防災グッズが収納され、太陽光発電の充電機も備わる。「情報を受発信するスマホは最高の防災グッズと高校生に教える」と青木さん。「丘の土台には家々のがれきが用いられ、被災地の記憶を守りながら、ここで未来の災害への備えを伝え、実践してもらうんです」と小林さんに語った。 

コロナ禍が明け、活動はこれからが本番。いわぬま震災語り部の会には、県外からの大型バスの学校旅行や、親子で学ぶ防災教室などの予約が入った。小林さんの出番は8月、来訪する団体を渡辺さん、青木さんと手分けして案内する予定だ。 

この日はよく晴れた土曜日。相野釜公園の慰霊碑を訪れた3人の家族連れに、研修を終えたばかりの小林さんが「どこから来たんですか?」と声を掛け、この場所や被災当時の説明をして語り合った。「福島の人たちで、来てみたかったそうだ。ひつじ村に寄ったそうで、『広い駐車場があったでしょ、あそこが私の家だったんです』と言ったら驚かれたよ」 。心で人とつながり、和やかな縁を広げてきた小林さんらしい笑顔があった。

語り部の研修の後、慰霊碑前で福島からの来訪者に語り掛ける小林さん=2024年5月18日、岩沼市相野釜(筆者撮影)

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