【加茂青砂の設計図】序章 いつか来た道

連載:加茂青砂の設計図~海に陽が沈むハマから 秋田県男鹿半島】秋田県男鹿半島の加茂青砂のハマは現在、99人が暮らしている。人口減少と高齢化という時代の流れを、そのまま受け入れてきた。けれど、たまには下り坂で踏ん張ってみる。見慣れた風景でひと息つこう。気づかなかった宝物が見えてくるかもしれない――。
加茂青砂集落に引っ越して二十数年のもの書き・土井敏秀さんが知ったハマでの生活や、ここならではの歴史・文化を描いていく記事とエッセイの連載です。

土井敏秀】昨年5月に股関節を骨折、8月末に退院するまで5回の脱臼を体験するなどしてから、ほぼ1年が過ぎた。以来、リハビリを兼ねた散歩で、近くの里山を歩く機会が増えた。印象に強く残っているのは今春、散歩道を帰る途中、たまたまイカリソウの白い花3輪と出合ったことだった。何年ぶりだったろう。この地(秋田県・男鹿半島)に引っ越してきた1998年(平成10年)ごろ、花は斜面一面に広がっていた。フクジュソウもカタクリも一斉に、春を謳歌しており、胸が高鳴った。

それが今や、極端に減っている。歩調を合わせ人が減るのも、当たり前か。裏付けなどない、勝手な理屈に勝手に納得している。2021年(令和3年)の国勢調査によると、秋田県内の人口は96万113人にまで減った。前回に比べ減少率6・2%、減少数6万3千6人となり、減少率、減少数とも過去最高だという。

これまでの各種選挙で、人口減対策が公約として、掲げられなかったケースは、おそらくない。なのに、下り坂が上りに変わったこともない。だれひとり、公約を実現できていない。視点を変えると「人口減は、ひとの手に負えるものではない」と、覚悟してもいいのではないか。

20数年後には60万人台と予想されている。もうそろそろ、人口減に歯止めをかけるという前提を、いったんやめてみるのはどうだろう。希望や明るい未来を見据えようと、下り坂なのに「ここが踏ん張りどころ」と、歯を食いしばり、上ろうとしてもなあ。立ち止まって、これまで、暮らしはどう成り立ってきたか―を検証してはどうか。

下り坂は「いつか来た道」であり、新鮮味には欠ける。そこをじっくり、踏みしめる。見慣れた景色でひと息つこう。気づかなかったものが、見えるかもしれない。里山の下り坂で、イカリソウの花を、久しぶりに見つけたように。ささやかな、その花との出合いを、「ムラの記憶」として、記録しておく。

ひっそりと咲くイカリソウ

私が暮らしている男鹿市の加茂青砂集落の人口は今(2021年6月現在)、100人を切り99人である。高齢者のひとり世帯も多く、日本全国に点在する「限界集落」のひとつに数えられる。男鹿市そのものが「消滅可能性都市」のレッテルを貼られているのだから、加茂青砂は市より先に、消滅しても不思議はない。かといって、この小さな海辺のムラが毎日を、泣き濡れて過ごしているわけではない。日の出とともに漁に繰り出し、畑を耕す。三々五々集まっては、コーヒーを飲み大きな声で笑い合う。

加茂青砂集落はどこの集落がそうであるように、人口の増減を繰り返してきた。江戸時代末期には約300人、明治時代初期は600人、昭和2、30年代は500人を数えた。馬と共に自給自足で暮らしていた時代があり、150隻もの舟で漁に励んでいた暮らし、だれもが、体を目いっぱい使って働いていた時代もあった。

今の高齢者が小中学校で習った教科書には、田舎は古い因習に縛られ、変化に乏しい、それに比べて都会は、職業選択の自由があり、文化的にも恵まれ豊かな暮らしを営んでいる―と、紹介されている。田舎の人間は、それを田舎の暮らしの中で読まされた。明治政府が江戸時代の暮らしを否定したのと、同じ理屈である。その影響もあって、人は都会に移動し、「少子高齢化社会」に道筋を開く環境を作った。この国の社会は何を切り捨て、何を得たのか。

となれば、だ。これまでの加茂青砂の成り立ちを追い、先人の知恵を踏まえて、集落という共同体の新しい「設計図」を作れるのではないか。設計図は、完成するかどうかも定かではない。途中、道草をしながら、立ち止まって、なぜこれを書き進めようとしているのか―と、自分自身に問いかけもしよう。ワクワク感いっぱい、不安もいっぱいで一歩を踏み出す。(つづく)

弓上の入り江に沿って家々が建ち並ぶ加茂青砂集落(秋田県男鹿市)

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