【連載:加茂青砂の設計図~海に陽が沈むハマから 秋田県男鹿半島】秋田県男鹿半島の加茂青砂のハマは現在、100人に満たない人々が暮らしている。人口減少と高齢化という時代の流れを、そのまま受け入れてきた。けれど、たまには下り坂で踏ん張ってみる。見慣れた風景でひと息つこう。気づかなかった宝物が見えてくるかもしれない――。
加茂青砂集落に引っ越して二十数年のもの書き・土井敏秀さんが知ったハマでの生活や、ここならではの歴史・文化を描いていく取材記事とエッセイの連載です。
【土井敏秀】北洋での仕事はいずれも、半年ぐらいの操業だった。それ以外は地元に戻り、早春のサスラマス釣り、冬のハタハタ漁、ヤリイカ釣りなどで稼いだ。24歳で結婚、子供2人には教育費がかかる、父親が購入した土地に家を建てなければならない。休む暇はなかった。「サクラマスは面白かった。普通で10本、巨大マス(2㌔以上)大マス(1・2㌔以上なら5、6本を入れた木箱8つ分水揚げした日もあったな。1日で1万円ぐらい稼いだんだ。加茂にはマスがうようよいたんだ」
幸雄さんが最初に、船外機付き漁船を持ったのは、1960年代後半(昭和40年代初め)、長男が小学生のころである。幸雄の「幸」、長男・勝幸の「勝」をとって「幸勝丸」と名付けた。
サクラマス釣りは、へら曳き(ます引きつり漁業)という。船を走らせながら釣る、トローリングである。へらと呼ぶ、海底近くまで潜らせる「潜行板」、擬餌針といった道具を自分なりに研究して作る。幸雄さんの場合は、ステンレスの糸に5個のへら(擬餌針付き)を、2ヒロ半(1ヒロは両手をいっぱいに広げた長さ)置きにつけ、その間にさらに1本の疑似餌を結んだ。その仕掛けを2本使って漁をした。潜行板は桐の板を削って作った。擬餌針の飾りはどうするか。色は? 形は?「大きいのがかかったことを想像して作るのさ。それが面白い。擬餌針にはマスの皮を付けるんだが、その幅、長さ、切り方に人それぞれの工夫があってな。おれは自分のをだれにも見せたんだが、隠すやつもいた」
幸雄さんは男4人、女4人きょうだいの長男。小学生のころには弟や妹を背負って通学した。学校でのおむつ替えもこなした。乳を欲しがって泣くと、田んぼ仕事をしている母親のところに連れて行った。だれもがそうだった。中学生ともなると、春先にはヤリイカ漁の手伝いをした。手伝いと言っても漁には、子供たちが初めから当てにされていた。父親は北海道でのニシン漁、北洋でのカニ、サケ・マス漁と出稼ぎに出ている。漁は祖父世代がひとりで仕掛けた。子供たちがいなければ、成り立たない。
「夜の9時ごろから夜明けまで、網がヤリイカでいっぱいになる度に、沖に出た」。水揚げしては家に帰って寝た。すぐまた起こされた。その部屋のストーブには、いつでも食べられるように、イカとジャガイモが入った鍋がかかっていた。「貧乏だったんだなあ。芋ばっかり食べていた」。
どうしても眠い。みんなで学校を抜け出し、ハマでむしろかぶって寝ていた。先生に見つかる。別の場所に隠れる。また見つかる……。「✕2乗何んとかなんて、覚える時間がなかった。それでも先生は、『風が強くなったぞ。網の様子見てこい』と、事情を分かってくれていた。授業中のクラスは、空っぽになったもんだ」
それでも、地元での暮らしには、みんなで楽しもうとする潤いがあった。大人になってからのエピソードの一つだが、各地に出稼ぎしていた仲間には、同じタイミングで帰っている者がいた。「秋に素人演芸会をやるっていうんで、資金をどうするかって話になった。シタナミ(小型の巻貝)取って、町場で売ればいいんでねが―となってな。青年団の男女合わせて10人ぐらい、漁船さ乗って、船川の町に売りに行った。リヤカー2台も積んで行った。一升マスひとつで5円にしたが、売れなくてな。親戚や知り合いの飲み屋にも行ったが、ひとっつも。みんなで大笑いしたなあ」
北洋から帰り、自宅にいたときには、資格を取る勉強にも励んだ。機関士、船長の免許も取り、50歳の定年後は東京に出て、人工島建設現場に作業員を送り迎えする仕事に就いた。毎朝毎夕、何度か往復、何百人かを運んだ。
56歳で、地元の加茂青砂集落に落ち着いた。サザエ網漁を中心に、幸勝丸とともに沖に出ている。地域の町内会の役員をやったり、老人クラブの会長を務めたり、閉校した加茂青砂小学校を活用した、体験教室「かもあおさ笑楽校」では、漁師のロープ結び、魚裁き教室の講師を務めた。ここ数年は、漁船による海の観光ガイドも仕事の1つに増えた。加茂漁港を出港し、沖からの男鹿半島の景観を約1時間堪能する。小型漁船しか入れない洞窟もあり、幸雄さんはマイクを握り、通訳のいらない程度の男鹿弁で説明にあたる。「地域のためになることなら、協力する」姿勢は、いつも変わらない。
幸雄さんの世代だけでなく、加茂青砂集落は父親世代、祖父世代ともに、北海道のニシン漁、北洋のサケ・マス、カニ漁、南氷洋のクジラ漁などで稼いできた。それは江戸時代末期から続く、暮らしの立て方だった。遠くはメキシコに出稼ぎに行った人たちもいた。それはもちろん、地元の海での漁師だけでは、家族を養えなかったからである。
幸雄さんは中学生の長男が「漁師を継ぎたい」と、進路を決めようとしたとき、やめさせた。19歳から63歳まで、出稼ぎで家族を支えてきた父親は「これから結婚するだろう。そうなったら、夫婦二人で暮らした方がいいべ。オカの会社に勤めろ」と、説得したという。「まさか、オカの会社に単身赴任があるなんて、そのころは、考えてもみなかったけどな」と、苦笑いが続いた。
(一番目の船「幸勝丸」大友幸雄さんの物語・完)
次回からは、佐藤真成さんの物語です。
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