「残された時間は少ない」仙台空襲、語り継ぐ難しさとその意味

【鈴村加菜通信員=宮城県仙台市】太平洋戦争末期にかけて、日本は全国で約830ヶ所が空襲を受けた。そのひとつ、仙台空襲に関する資料を展示する仙台市戦災復興記念館では、ボランティアの仙台市民が語り部となり、仙台空襲や戦後の生活について、自身の経験を伝えている。語り部の高齢化、担い手の問題、そして問われている「語り継ぐ意味」とは。語り部の1人として活動する市内の男性(75)に話を聞いた。

仙台市民有志で発足した「語り継ぐ会」

戦災復興記念館や仙台市内の学校で戦争体験の語り部活動を行う「仙台の戦災・復興と平和を語り継ぐ会」。前身である「『市民の手でつくる戦災の記録』の会」は昭和47年に結成された。市役所内に事務局が設置され、仙台空襲に関する資料や体験者たちの声が集められた。

昭和56年4月1日、仙台市戦災復興記念館が開館。記念館に収められた資料のほとんどは、それまでに市民の手で集められたものだという。その後、戦災復興記念館では20年以上にわたって、定期的に戦争を語り継ぐつどいが開催された。このつどいでの戦争体験の発表が、現在の語り部活動のもとになっている。

戦災復興記念館の入り口に飾られている七夕の吹き流し。その背後「フェニックス」は戦争から仙台の復興を表現したものだという

語り部は100人から十数人にーー高齢化する語り部と、語り継ぐ難しさ

「語り継ぐ会」のメンバーの平均年齢は高くなっていくばかり。75歳の男性は「ダントツで若い」という。「毎年、夏は戦災復興記念館の資料室で交代で語り部の活動をしていましたが、今年は異常な暑さもあって当番制はやめにしました。会員も高齢化して体力の問題もありますから」。結成時、発起人は100人を超えていたが、今では、現役の語り部は十数人となった。

「語り継ぐ会」が抱える問題は、語り部の高齢化以外にもある。

「私たちは『戦争体験を語り継ぐ』語り部です。その体験を聞いて、戦争や平和について考えるのは体験を聞いた次の世代の人たちそれぞれがすることです」しかし、男性によると、語り部の中には体験談と合わせて自らの主義主張まで語り出してしまう人が出てきているようだという。

語り部活動をしていると、多いのが「戦争をしないためにはどうしたらいいですか」という質問。

「これは非常に難しい問題です。子どもたちを引率してきた学校の先生だって答えられないんだから。正解はわからない。それに、私たちが『戦争が嫌ならこうするべきだ』と押し付けていいのでしょうか。世の中にはいろいろな考え方や意見があるんです。まずはいろいろな立場があるってことを知らないと。そこから自分で考える機会を子供たちや若い世代から奪ってはいけないと思うわけです」

男性は、仙台空襲の経験を伝える「語り継ぐ会」の活動が、会員個人の考えや意見を押し付ける場になってしまえば、「語り継ぐ意味」がなくなってしまうのではないかと悩む。

体験者の言葉で「語り継ぐ」ことの意味

「私たちに残された時間は少ない」と男性は話す。現在の「語り継ぐ会」に戦後生まれはほとんどいない。語り部が戦争の経験者でなければならないというきまりはないものの、戦後生まれの若い人を語り部として迎えるかはこれまできちんと議論されたことはなかった。今後のことは「誰もわからない」という。

戦争中の恐ろしい体験や戦後の苦しい生活経験を伝える「語り継ぐ会」。戦争に関する資料や体験談は様々な形で残されている。資料からでも事実を学ぶことはできる。「でもね、目の前の体験者の声を通してこそ伝わることもあるじゃないですか。今の子どもたちは、祖父母も戦後生まれというのが珍しくない世代ですけど、体験者から直接話を聞く機会はまだあります。今話しているおじいさん、おばあさんが自分たちと同じくらいの年に経験したことなんだと気付くと、戦争体験を聞く子どもたちの反応は全く違ってくる。そうして興味をもって勉強したり、考えたりするようになるわけです。私たちが語り継ぐ意味は、そこにあると思うんです」

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