解体された料理店の古手紙、眠っていた戦争を伝える「そうま資料ネット」が20日、シンポで成果報告 

寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】度重なる地震被災で昨年、解体された相馬市内の老舗料理店から、日中戦争に出征した若者の戦死までの日々を伝える古い手紙類が見つかった。失われる城下町の文化財救出活動をする、市民有志の「そうま歴史資料保存ネットワーク」が解読し、20日に催す第2回シンポジウムで報告する。戦争が住民の暮らしをどう巻き込んだか、伝える記録は市史にも少なく、「古い手紙類も歴史の証人。捨てずに一報してほしい」と呼び掛ける。 

小さな茶箱にぎっしりと手紙類

解読されたのは、同市中村字大町にあった明治27(1894)年創業の老舗料理店「まる久(きゅう)」に残されていた手紙、はがき、軍事郵便など16通と、「出征祝帳」「御芳志拝受帳」などの資料。まる久は、東日本大震災と2021~22年に福島県沖で続けて起きた震度6強の大地震で被災し、昨年暮れに解体された。

「そうま歴史資料保存ネットワーク」(鈴木龍郎代表・以下、そうま資料ネット)は、解体を前に家族の依頼を受けて、創業時代から残された店の歴代の看板や商売道具類、骨董品類、多くの文書類など、貴重な資料を救出、保管し、内容を調査してきた。その中に小さな木の茶箱があり、中にぎっしり、古い郵便物が詰まっていた。 

そこに、ひもでまとめられた手紙、はがきの束があり、うち16通が「佐久間善誠」という人物にまつわる着信だった。それを調べたのはメンバーの郷土史研究家、佐藤史生さん(80)。佐久間家は、まる久の創業以来の経営者で、善誠さんは、3代目店主の長男だった。佐藤さんは当時の記録から、善誠さんの人となりを追った。 

救出した古手紙類を前に話し合う佐藤史生さん㊧と、そうま資料ネット事務局の武内義明さん=相馬市の相馬高校
救出した古手紙類を前に話し合う佐藤史生さん㊧と、そうま資料ネット事務局の武内義明さん=相馬市の相馬高校

戦場から伝えられた「跡取り」の近況 

それによると、善誠さん昭和14(1939)年に旧制相馬中学を出て、修行のため東京の川崎銀行(後に三菱銀行と合併)に入行した。その後、太平洋戦争が始まる直前の同16年、補充兵に編入され、翌年に仙台東部第二十五部隊(騎馬隊)に入隊、出征した。善誠さんにまつわる内容の郵便物のほとんどは、出征後のものだった。 

「善誠さんは長男で、佐久間家の大事な跡取り。それを表わすように、彼にまつわる内容の郵便物の大半は、祖父に当たる、当時の当主(戸主)で2代目の善之進あてでした。差し出し人は善誠さん本人でなく、軍人や戦友ら、20人にわたっています。善誠さんは中国の戦場に派兵されました。そんな彼の様子を気に掛けて、中国の戦場などの近況とともに、軍事郵便で佐久間家に知らせてくれる内容が多い」 

中国の戦場から届けられた軍事郵便

目立つのは、善之進らから受けた配慮や手助け、贈り物への感謝の文言だ。ある出征者は、留守家族の田植えの手伝いをもらったことに、別の軍人は「重々のご配慮」を受けたことに、お礼の言葉を添えている。善之進は、町内会や商業など各種組合の長を務め、相馬(当時は中村町)で交友の広い名士だった。「戦地にいた縁者や知人に、たばこ、まんじゅうなどの慰問品を送っていたことも分かりました」 

戦死の報、悼んだ町の人々の思い

善誠さんは、昭和19(1944)年7月5日、中国湖南省の戦場で亡くなる。上官の陸軍大佐から翌年1月、善之進に報告の手紙が届き、「十数倍の敵の反復攻撃を撃退」する激戦のさなか、小隊長(少尉)として白刃を振るって追撃射撃を指揮中に敵弾を腹に受けたという。24歳の若さだった。当時の満州国(中国東北部)役人だった善誠さんの友人からの悔やみ状もあった。また戦後になって大陸から復員した戦友たちから、戦死の状況を悲嘆とともに伝えるはがきも、善之進さんに届いた。 

遺族への当時の儀礼を伝えるものが佐久間総本家の「御芳志拝受帳」(代表者は善之進)だ。同年12月に公報で戦死が伝えられ、遺骨も帰ったのを受けて、170人もの知人、縁者、町民、当時の陸軍大臣らがお悔やみの金品を寄せ、「天皇皇后両陛下御下賜」の多額の祭花料も記された。くるみ、みかん、バナナ、柿、大豆、団子用の米などを持ち寄った人も多く、庶民の暮らしと戦死者への思いが伝わる。 

町の人々の戦死者への思いを伝える「御芳志拝受帳」

救おう、忘れられた歴史を伝える資料

これらを調べた佐藤さんは、検閲の厳しい軍事郵便の中に、戦場の凄惨な情景を伝える文章があることにも注目する。軍人ながら、人間の感情がこもる描写だ。 

小さな城門を這い入っていくと汚い廃店の並んだ狭い往来に累々たる中国人のしたい(原文ママ)が横たわっていました。或る一軒のいえでは壁にもたれるまま棒のようなものを握って息の絶えている支那兵もいました。半ズボンにだぶだぶの上着を着たまま、17、8歳の少年兵で肩や背に黒い血が乾いていました。

当時の手紙、はがき類と一緒に、福島県知事名による「金属類回収勧告状」(昭和16年12月10日付)も見つかった。軍事物資への加工原料を事実上、強制的に徴用する令状で、町一番の料理店を経営する佐久間家は協力の責任者でもあった。 

解読に当たった佐藤さんは「こんな大変なことが先人の身近で相次いだのに、戦争中の町の日常は、相馬市史の通史編にも詳しく書かれていない。こうした資料がもっと日の目を見れば、忘れられた歴史も明らかになる。相馬の街では、度重なる災害で城下町の家並が解体され、貴重な資料も危うい。家の中、蔵の中に眠っている古い手紙も歴史の証人になる。私たちに一報してほしい」と呼び掛ける。 

戦前の「まる久」の姿を伝える写真=そうま資料ネットが昨年9月に催した第1回シンポから

20日(日)に「そうまの歴史を守る・つたえる」シンポジウム

戦時下の地方の町の暮らしを生々しく伝える、これら佐久間家での発掘資料を、そうま歴史資料保存ネットワークは20日に開催する第2回シンポジウム「そうまの歴史を守る・つたえる」で詳しく紹介する。 同会の活動成果を市民に共有してもらうシンポは、同日午後1時から相馬市民会館の多目的ホールで。入場無料。連絡先は事務局(相馬商工会議所内)0244-36-3172。 


そうま資料ネットのこれまでの活動は、以下の記事をご参照ください。
https://tohoku360.com/soma-siryou/

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