【高校生が取材した沿岸部の今】東日本大震災から10年を迎える仙台市沿岸部の今を知り、伝えようと、尚絅学院高校インターアクト部の生徒たちは昨年から、宮城野区中央市民センターのもと沿岸部各地で取材活動を行ってきました。震災当時幼稚園生や小学生だった高校生たちは、取材を通じて何を感じたのでしょうか。TOHOKU360では4回にわたり、高校生たちがこの一年で執筆した記事を掲載します。
私たちは仙台市宮城野区の仙台港に営業所を持つ太平洋フェリーの方に取材をしてきました。お話を通じて、復興のいまや震災の教訓が見えてきました。
実はフェリーは物流の仕事が7割
皆さんは太平洋フェリーの仕事を知っているでしょうか。主に知られているのはフェリーで人を運ぶことだと思います。しかし、旅客を運ぶ仕事と物流として運用する仕事の割合は3:7であり、物流の仕事の方が盛んです。新型コロナウイルスの影響はあるものの、車両の運転手を減らすなどの工夫でその影響を最小限に抑えているそうです。
普段運んでいるものはなんとライブの音響機材から自衛隊の特殊車両やミサイルにいたるまでさまざまで、一回に50tの荷物を運べるそうです。旅客を運ぶ仕事は物流よりもさらに多くの従業員が必要になります。
30〜40人ほどの従業員の方がフェリーに乗っていて、その内15〜20人が接客業務、航海士とエンジン作業をする方が各4人、セーラーマンと呼ばれる作業員の方が3人、その他イベントの演者の方が乗っています。連続出動が多く、大変な仕事ではありますがメンタルケアに務めるなどして改善が進められています。さらに最近では女性の活躍も注目されています。
身長の何倍もあった、大津波の到達高さ
東日本大震災からまもなく10年という機会で、改めて復興について取材を行いました。今回インタビューに答えてくださった仙台港営業所所長の佐々木浩さんは震災を振り返り、その被害を教えてくださいました。
2011年3月11日、大きな地震が仙台港を襲いました。その時、太平洋フェリーでは荷物を船から運び出す作業をしていたそうです。皆さんも知っている通り、東日本大震災では津波が多くの被害を出しました。津波は営業所の7.2mの高さまで到達しました。現在もその高さまで到達したことを示すステッカーが貼られ、今でもその恐ろしさを思い出させます。
私は津波のことはよく知らず、太平洋フェリーの被害を聞き、大変驚きました。建物の下に立ってみるとステッカーの高さは自分の身長の何倍もあることが実感でき、これでは津波が来てからでは逃げることができないと感じ、普段ニュースで見る津波の映像とは比較にならないほどの恐ろしさを感じました。
実際、太平洋フェリーでは従業員全員が屋上に避難して無事だったそうですが、一階の部分が水没してしまいました。このことから避難の判断の迅速さや防潮堤の設置の必要性が見直され、避難訓練の実施、災害時の対応マニュアル配布、地震速報の機械の設置へと活かされています。震災以降の災害時の避難訓練や震災の語り部体験などの私たちの生活にもつながるところがあり、共感することができました。このようなことから、どんな緊急時でも対応することができると感じました。
コロナ禍でも活かされる対応力
その対応力は、新型コロナウイルスの影響下にある現在でも活かされています。船の中で働く職員や作業員は、手洗いや消毒、毎日の検温、マスク着用の義務化がなされています。フェリー内では、レストランの一席あたりの人数を制限したり、施設内の換気・消毒を徹底したり、飛沫防止パネルを設置したりしています。利用客へのお願いとして、マスクの着用、三密にならない過ごし方などの協力を求めています。
太平洋フェリーの訪問では東北の復興の前進を感じるとともに、当時の被害の痕跡や教訓についても学ぶことができました。そしてこのような悲惨な被害が今後二度とないよう、体験を後世に残すことの重要性がわかりました。
(取材・執筆:阿部 美乃里、伊藤瑞生、橋本晶、松崎ななせ)
*この記事は仙台市宮城野区中央市民センターが実施している「若者社会参画型学習推進事業」(まいぷろ)と、高校生への記事制作指導を担当したTOHOKU360とのコラボ企画です。
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