【2023被災地発】帰還困難区域・浪江町津島で13年目の「解除」 生きたい、築二百余年の家と共に新たな開拓民として(後編) 

寺島英弥(ローカルジャーナリスト、名取市在住)】福島県浜通りの浪江町から国道114号(至福島市)を車で西へ。太平洋に注ぐ請戸川の流れをさかのぼり阿武隈山地に分け入ると、しばらくして、道路脇の斜面や林床がきれいに整地された景色が続くようになった。放射性物質を含んだ土をはぎ取る、除染が施された跡だ。同町津島地区の避難指示解除エリアに入ったことが分かった。後編は現地からルポする。

除染された復興再生拠点の景色 

2011年3月の東京電力福島第一原発事故から13年目の春。原発事故の放射性物質拡散で高線量となり、立ち入りや居住が制限された帰還困難区域について、国は4町2村で一部地域を「復興再生拠点」に指定し、除染の上、居住可能な環境や機能を整え、避難指示を相次ぎ解除している。浪江町津島地区もその一つだ。 

津島の復興再生拠点区域(面積で帰還困難区域全体の1・6%)を訪ねたのは4月1日。前日に避難指示が解除されたばかり、という新たな現実が車中から確認できた。除染とともに、国道はきれいに舗装し直され、町役場の新しい津島支所、まちづくり活性化センターの隣に、真っ白な町営住宅10棟ができている。解除に先立って昨年9月から行われた準備宿泊はわずか3世帯4人。解除後間もなくの居住者数を役場は把握していないというが、町営住宅には二拠点居住(町外の家と往復する住み方)の住民が入り、続くの入居の申し込みもあるそうだ。それでも国道沿いの集落に人影は見えなかった。

浪江町津島地区の復興再生拠点エリアに造られた公営住宅=避難指示解除翌日の2023年4月1日

南津島上(かみ)行政区長、紺野宏さん(63)の家は、国道と請戸川に挟まれた小高い場所に立っている。原発事故前、近隣は津島郵便局を中心に多くの家が寄り添う集落だったが、現在は除染や復旧工事を請け負うゼネコン現地事務所が、かろうじて人がいる建物のようだ。ここまでの道中では満開の桜を目にしたが、標高約450㍍という山あいにある紺野さん宅の庭は、大きな白梅の木が花盛りだった。 

12年間の避難生活を終えた紺野さんを迎えた庭の白梅(後方は改装された旧牛舎)=2023年4月1日、浪江町南津島

古い梁や柱、茅葺が息づく家 

築二百余年という家との出合いに、思わず言葉をなくした。古民家を思い描いていたが、まず、カメラのファインダーにも収まり切れないほどの大きさだ。母屋は総二階造りで、建坪は70坪(約220平方㍍)という。白いなまこ壁の蔵が並ぶ。紺野さんは「このあたりでは普通の農家だよ」と笑うが…。 

紺野さんが改装し、帰還した築二百余年の家。雄大な屋根の下に茅葺が息づく

母屋は昔ながらの土壁、板壁や木のガラス戸などが改築で取り払われ、濃いクリーム色のモルタル壁や茶色いサッシ戸に装いを変えている。傾斜が急で高くそびえるような、雄大な屋根は赤茶色の鋼板で覆われ、その頂には茅葺(かやぶき)屋根に特有の煙(けむ)出しが載っている。昔は囲炉裏やかまどの煙が厚い茅葺を燻蒸し、乾燥させ、虫よけにも働き、最後に煙出しから外に抜けた。 

「うちの屋根は40年前に最後の葺き替えをして、いまも半分の厚さの茅を残して、その上に鋼板をかぶせてある。先祖からの家をそうして残したかったんだ」 

紺野さんの家への思いを如実に表現するものが、モダンな外壁を焦げ茶色の荒々しい太さで支える梁や柱だった。玄関から入れてもらうと、往時の家そのままに囲炉裏の間が再現されている。自在鉤の付いた琥珀色の竹が下がり、その天井で太い梁ががっちりと組み合っている。囲炉裏の間では今風に薪ストーブが焚かれ、「薪は、家の周りにいくらでもあるからね。家じゅうが暖かくなるんだ」。 

古い梁や柱が生かされた紺野さんの家の中座敷

そこから奥は、昔の間取りそのままに十畳間が続いている。真新しい天井と白壁にも、同じく焦げ茶色に燻された太い梁と柱がむき出しで共生している。 

「梁は松の木、土台は硬いクリの木。宮城県沖地震(1978年)でも、東日本大震災の揺れでも、この家はびくともしなかったんだ。これからも守ってくれる」 

先祖の歴史につながれる場所 

囲炉裏の間の隣の、いまは応接セットを置いた十畳間は原発事故前まで中座敷で、紺野さんが庭元(座長)として「田植え踊」(注・津島地区の伝統芸能・前編参照)を稽古した場所だった。「神棚があって、『田植え踊』をまず奉納する地元の八幡神社のお札を提げ、団子木(だんごぎ・ミズキの枝に米粉のだんごを飾り、五穀豊穣を願った小正月の縁起物)を飾って、その前で踊ったんだ」と紺野さん。由緒ある大切な場所が残った。 

十畳間には金色の大きな仏壇もあり、紺野さんは郡山市内のアパートに一緒に避難した先祖たちの位牌を並べようとしていた。これから掲げる古い遺影も十数枚、床に並べてある。「小学2年生の社会の授業で、自分の家がいつ造られたか、調べたんだ。祖父(故人)に聞いたら、『14代、170年になる』と教えてくれた。現在まで数えると、200年以上になるね」 

先祖の遺影に思い出を語る紺野さん。家の歴史と再びつながる

紺野さんの家の造り、大きさは、多くの手作業を要した養蚕の生業と関係があるのでは、と思って尋ねると、「2階がすべて養蚕部屋で、家の周りは桑畑だった。曾祖父が養蚕で大きな財産を築いたと聞いていた」「私が小学5、6年生のころまで蚕を飼っており、朝の4時、5時になると、たくさんの蚕が桑の葉を食べるカサカサという音で目が覚めたほどだった」。 

「父が婿で、実家で酪農を営んでおり、祖父らに遠慮しながら10頭、20頭と乳牛を増やして家業を転換したんだ」。それが当代の紺野さんにつながる。この家の空間は紺野さんにとって、先祖の歴史そのものに再びつながっていける場所だった。 

これからの生活と人生を描く 

津島地区の避難指示解除の区域内外の道すがら、やはり堂々たる風格の古民家や、木のつるに覆われた大きな長屋門を眺めた。国は「(復興再生拠点の区域外でも)帰還したい希望の人であれば、住まいを除染し、個別に避難指示を解除する」との方針を打ち出し、住民の意向調査を進めている。将来の帰還を考え、除染と合わせ古い家の解体を決めた住民もある。が、古い家であるほど、そこで生まれ育った人であるほど、愛着ゆえ決断に苦悩するという。外見は原発事故前と同様でも、人が住まなければ湿気、雨漏りで内側から朽ちてゆき、動物も入り込んでしまう。これまでの取材でも、そんな家々を見てきた。原発事故がもたらした残酷さだ。 

「子どもに『継いでくれ』、『残してくれ』とは言えない。だから誰しも悩むのだが、一方で、それを『負の遺産』と考えるかどうか。私は私の決断をして、いま心が落ち着いているし、親族は皆、喜んでくれている。そして、これからがある」 

 紺野さんから、帰還して始まる新しい生活と人生の設計を聴いた。現在の仕事(本宮市まで通勤)は来年6月まで続くといい、「それまではゆっくりとこの家で過ごしながら、除染された田んぼの保全管理をしていきたい」。 

津島地区の避難指示解除エリアでは、道路脇の水田が広く除染され、新しい土を盛って整地されており、営農再開の希望者のいることがうかがい知れた。その一人が、原発事故前、酪農のほかに60㌃の稲作をしていたという紺野さんだった。 

今年は土づくりや除草などの作業を行い、「来年初めから何かを作付け試験したい。それを3年続けるつもり」と紺野さん。原発事故の被災地には、放射性物質残存の可能性から、現在も国からコメや野菜の作付け制限をされている地域が多い。まず、その解除が営農再開へのカギになる。そのための作付け試験とデータ蓄積に専念したいという。「津島では、営農再開を志す農家の組合を2年前に結成しており、20人ほどの仲間がいる」。長い道のりになろうが、将来は国の支援事業を生かした60㌶前後の営農再開を胸に描く。

名もなき「ともしび」になれば 

それでも、いまだ帰還困難区域の住民が大半である津島地区の未来はまだ見えない。復興再生拠点の名を冠し「復興」をアピールしたいのが国の思惑。それを超えて、現在も661人の住民が国、東京電力の責任を問い、全域除染による原発事故前の原状への回復を訴えて「ふるさとを返せ」津島原発訴訟を続けている。紺野さんも原告団の一人。先月20日あった控訴審の仙台高等裁判所での口頭弁論に立ち、その思いをこう吐露していた(前編参照)。 

「周りに誰も住んでいない家に戻ることに不安はないのか、と周囲からは言われます。私は、自分のこれからの津島での人生を前向きに考えています。 

戦後、津島に多くの大陸(注・中国の旧満州など)引揚者が入植しました。身体一つで津島にたどり着き、鍬一つで山を切り開いてきました。その入植者たちの苦労に比べれば、私の背負う苦労は、1000分の1、10000分の1です」 

入植者たちは、古くからの住民と仲良く交わり、その間に差別や疎外はなく、共に豊かなむらづくりをしてきた、それが自慢だ―と筆者も津島の人々から聴いた。 

「私は、新たな開拓者として、津島に戻ることを決意しました。将来の津島において名もなき『ともしび』となれば本望です。私が津島に蒔いた『ともしび』、種が後世につながり、いつしか再び活気にあふれたふるさと津島につながればよいと思っています」 

「2023年2月5日に浪江町の復興拠点の避難指示解除の説明会があり参加しました。復興再生拠点区域の住民は、解除から1年以内に家屋の解体を決断するかどうか、を迫られています。既に8割の住民は解体を申請していると聞いています。 

住民は、みんな元の津島の生活に戻りたいのです。しかし、さまざまな事情でそれはかないません。政府が、津島に戻るかどうか、どの選択を迫るのは間違いです。それでも戻るという決断をした人を全力で支援し、その決断を次の世代に引き継いで豊かなふるさと津島を保全していくことこそが、国や東京電力のやるべきことではないでしょうか」                            

原発事故前、紺野さん宅の中座敷で演じられた田植踊り(紺野さん提供)

取材の最後に、「田植え踊」の南津島の庭元(座長)としての紺野さんに、これからへの思いを尋ねた。 

「南津島の保存会には二十数人の仲間がいる。避難先もばらばらで、皆で顔を合わせる機会もなかったが、私は事務局もやって連絡を取り合っている」 

稽古の場であった紺野さん宅の中座敷は、装いは変わったが、母屋とともに再生された。小正月に田植え踊を奉納する地元の八幡神社、長安寺も、復興再生拠点のエリアに入った。住民が寄りあう地域文化の象徴の場所であると、区長会を通して要望したという。  

「今後どこかの時点で、保存会の仲間に『わが家に集まって』と連絡するつもり。思いはあっても(それぞれに事情があり)無理な話はできないので、一回、『どうだろう』と招いてみたい。まだそれだけです」 

もう一つの「ともしび」を灯す場にも、築二百余年の家はなろうとしている。 

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