2月13日深夜、東北南部を襲った最大震度6強の福島県沖地震に続き、3月20日夕、宮城県沖を震源とする同5強の地震が、10度目の「3・11」を刻んだばかりの被災地に追い討ちを掛けた。2月の地震で震源に最も近かった相馬市を取材した筆者は(2月16日の『福島県沖地震「最大震度」を観測した郷里・相馬の街は』参照)、3月20〜21日に再訪。同記事で紹介した地元の建設会社経営者で、地元発の民家耐震工事を手掛ける桜井茂紀さん(64)に同行し、東日本大震災以来の被害の蓄積と、それを克服しうる可能性を見た。その象徴が「ハイカラヤ」だった。(ローカルジャーナリスト、寺島英弥=名取市在住)
「住み続けたい」思いを助け
20日朝、桜井さん、妻の一枝さんとまず訪ねたのは相馬市西山にある築約50年の民家。旧中村城の堀につながるため池跡だった土地で地盤が緩いといい、木造モルタルの家は一目でゆがんでいるのが分かる。桜井さんが玄関わきの角に水平器(傾斜計)を当てると、1メートルで3センチ、つまり3度の傾きがある。玄関前のブロック塀は2月13日の地震のため一部が崩れ、壁に新しい亀裂が何本か走っている。それでも家そのものは地震に耐えた。
桜井さんは先月の地震直後の夜中、自身が耐震工事を手掛けた市内の家屋を外から見て回り、無事を確認していた。「それでも『10年前より家の被害がひどい』という話も街で聞き、仕事の合間に点検に歩いている」
この家の敷地は、以前からいびつな傾き(不等沈下)があり、東日本大震災の震度6強(相馬市内の観測)の大地震で倒壊の恐れが生じた。「本来、国による無償解体を受けてもいい家だったが、70歳を前にした主人から『新築するお金がない。あと10年、住めればいい。何とかなりませんか』と懇願され、現状でも住み続けられるような策はないか、と知恵を絞った」
桜井さんは家のまわりの11か所に深さ2メートルほどの補強の杭を打ち、それぞれを基点に腕木を伸ばし家の底部を支える方法を採った。「本来、コンピューター管理で水平に戻すのが一般的だが、水平に戻すだけの予算の余裕がなく、現状を超える不等沈下を防ぐのみ、という苦肉の策だった。地元の大手建設会社から断られたという依頼を引き受けた。とにかく『倒れない家』にした」
「それから家は持ちこたえてきた」と主人はいうが、中に入ると、座敷の隅に向かって畳の床が下がっており、目に見える傾斜が残っている。「それでも暮らしてこられた。だが、先月の地震で障子が動かなくなって」。激しい揺れにも家は持ちこたえたが、新たなゆがみが生じたらしい。「震災の後、10年住めればいいと考えたが、もう少し延ばせれば…」と、主人は桜井さんに相談し、あらためて市に被害判定を依頼することになった。
「耐震工事をしなければ、2月13日に倒れていた家かもしれない」と桜井さん。それぞれの家に、それぞれの事情がある。震災はその苦しさを嫌が応にも露わにした。その家に住み続けたいという切実な思いを、個々の現実とどう折り合いをつけて支援できるか。模索は続いてきた。
転機は東日本大震災
桜井さんの実家は相馬で老舗の建設会社だった。自身は東京の大学で建築を学んで、鉄鋼会社を親会社にする中堅住宅メーカーに就職。業界大手と最前線で競争しながらお客を開拓し、15年続けて全国トップの成績の営業マンだった。「客の目の前でパース(立体図)を手描きし、積算も披露できた。提案から契約までその場で決めてきた」。その後、実家の会社に入ったが、2002年に一枝さんと2人で桜井建設を設立して独立。マーケットを南東北や関東にも広げ、現在は地元のほか、仙台市内を中心に住宅やアパートを建てている。
人生の転機となったのが東日本大震災。東京電力福島第一原子力発電所事故のため、南隣の南相馬市、双葉郡から避難した人々が相馬市に住まいを求めた。「大地震で壊れた家を30軒余り修復し、新しい木造住宅も建てた。そこで手掛けることになったのが耐震補強工事だった」
その実践例は現在まで、相馬、南相馬両市、福島県新地町、保原町など15の家や店舗を数える。桜井さんは、「相馬の『ビートルズ・マニア・カフェ』」として知られるようになった「中村珈琲店」のオーナーでもあり、その店も、実家の築70年の家屋に耐震補強を施して造った。
3月20日の午後6時9分に起きた震度5強の地震は、激しい揺れが30秒近く続いた。「収まるまで気持ちが悪くなるほど長く感じた。でも、2月13日の地震より揺れが小さく、家の改修をさせてもらった関係者にはすぐ電話で無事を確かめた」。こう語った一枝さんと翌21日、その一軒を訪ねた。
ハイカラヤ。相馬の古くからの住人なら誰もが知る店の名だ。1936(昭和11)年に「ハイカラヤ雑貨店」として創業し、当時の写真には「帽子 メリヤス」「塩」の看板と衣料品、店の前に積まれた竹かごが写っている。やがて化粧品が目玉の「おしゃれの店」として女性客を集め、毎夏の伝統行事、相馬野馬追では騎馬行列の定番の撮影場所になった。何より、珍しい半円形の外観の店構えが時代を超えて「ハイカラ」な意匠で、東京でいえば銀座・服部時計店のような、街のシンボルだった。
倒壊寸前だった店
店そのものは廃業状態にある。東日本大震災に加え、店主の石田保直さん(79)が病気で歩行が不自由になって、おしゃれ雑貨や衣料品の販売を身内の後継店に譲り、化粧品だけを別のスペースで妻はつよさん(79)が扱う。
道路の向かいにあるNTTのビルの前では、アスファルトの道の端が7〜8センチも盛り上がり、亀裂が広がり、とりわけ2月13日の地震の被害を物語った。「すごく揺れて怖かったけれど、おかげさまで、店は何ともなかった」と、はつよさんは安堵の表情を浮かべた。
見せてもらった半円形の店の中は、不均等な多角形をしていた。角ごとの柱はいま、合板の壁に隠れている。「これは10年前の震災の後、改造してもらった時、取り出された古い柱です」。はつよさんが手に取ったのは、土台の上に立っていた十数センチ角の柱の端っこで、古く劣化した上にシロアリにも食われていた。
1936年建造のハイカラヤが震災時、どんな状況になっていたのか。どんな耐震工事が行われたのか。訪問の前日、桜井さんから事務所で話を聴いていた。
「ハイカラヤを建てたのは自分の祖父だった。半円形の店の表を支える当時からの柱は11本あったが、実際に働いていた柱はそのうち6本しかなかった。大地震の揺れの方向から、店の建物は南側にゆがみ、倒壊してもおかしくはなかった。ただ40年前、2代目だった父親が、店の南北に長さ10メートルほどの2列の鉄骨の梁と柱を入れて無理矢理に補強しており、かろうじてそれだけで店は支えられた」
それでも石田さん夫妻は、店を街の文化財のように大切にしたい思いが強く、「3代の縁なのだから、何とか残せるような方策を願いします」と桜井さんに依頼した。次に大きな地震が来たら間違いなく倒れる―と正直に告げ、無償解体の制度の利用を勧めたかった桜井さんは、夫妻の熱意に折れたという。国からの補助金270万円しか資金がないという事情をのみ込んで、前例を知らない耐震工事を引き受けた。
三重の補強に「シェルター」
着工は11年の暮れだった。桜井さんが考案したのは三重の補強策だった。工法は、1本でも取り外せば建物を倒壊させる恐れのあった古い柱をすべて、新しい角材2本で挟んでサンドイッチにし、柱と柱の間にX形の筋交を入れ、その上に強度の高い合板を張り付けて擁壁にした。そうした建物の延命だけではなく、そこに暮らし続ける石田さん夫妻の安全を絶対に確保するための秘策がわいた。
ハイカラヤを訪ねた3月21日に話を戻す。かつて商品棚があった、がらんとした空間の隅に、木造の小屋のような箱型の一角がある。厚さ2・4センチの合板を二重に組み合わせた壁に囲まれた、6畳の広さの部屋だった。中には電気コタツとテレビ、ソファのセットが置かれ、小さな隠れ家のようだ。遊び場にしているという孫たちの大きなガンダムもある。
「たとえ建物が潰れて2階が落ちてきても、このボックスだけは耐えて残り、逃げ込んだ家族を助けることができる」と、一枝さんは言った。ハイカラヤの建物全体が南の方向にゆがんでいるため、一番安全な北側の端に設けたという。家屋の中のシェルターだった。
きっかけは16年前、仕事先の静岡県で得た。袋井市の会社社長から寝室の防災工事を依頼され、その折に現地の市役所で見た展示品が「防災ベッド」。ただのベッドでなく、寝室全体を鉄骨のフレームで覆うような一種のシェルターだった。注文主が急逝したため工事は実現せずに終わったが、それはヒントとなって生き続け、震災の被災地でよみがえった。
「実際には500万円くらい掛かった工事だが、最初の挑戦でもあり、住まい造りに関わる人間が地元のために何ができるかを試すボランティアでいいと思った」
ハイカラヤの経験をこう振り返る桜井さんは、その後も依頼のあった民家や店舗の耐震補強工事に「シェルター」の発想を取り入れ、前述の『福島県沖地震で「最大震度」を観測した郷里・相馬の街は』で紹介した筆者の実家での実践例も、震災でゆがんだ古い部屋の中に「シェルター型」あるいは「ボックス型」のもう一つの部屋を造る発想の工事だった。
障子に波形の破れ目
ハイカラヤ訪問は、それで終わりではなかった。「2階の様子も見てほしい」と案内してくれた、はつよさんに付いて階段を上ると、そこには整然とした1階とは打って変わり、2月13日の地震がいかに大きかったかという「被災」の実相があった。
震災後は使っていないという2階の部屋々々は、思わず「これはひどい」という声を漏らしたほど、タンス類、家具類が倒れて折り重なり、足を踏み入れることもできない状態だった。「10年前の震災でもこうはならなかった」と、はつよさんは嘆息した。
そして、「こんなものがいっぱい出たんです。いままで見たことがありません」と指さしたのが、障子に貼られた紙に浮き出た破れ目だ。それは左上から右下に向かう波形で、1階の和室も含めてすべての障子の格子ごとに、すっかり同じ形で浮かんでいる。不思議なのは、障子の格子の部分は全く破損していないことだった。科学的な理由はあると思うが、「何度でもやって来る、忘却は許さない」という震災からの不気味なメッセージにも見えた。
2月13日の地震の住宅被害はいまも増え続け、判明分だけで福島県内が6270戸(3月15日現在)、宮城県内が9432戸(同26日現在)に上っている。
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