【気になる】ずっと潰れない老舗履物店の経営の謎について聞いてみた

【今野智志通信員=宮城県大河原町】駅前の道沿いに昔からある1軒の履物屋さん。入った事は1度もないが通るたびに開いているのかどうかすら不明だったこのお店に対し、ふと「ここの経営はどうやって成り立っているのだろう?」という疑問がわいたので取材した。

お店の名前は「サヨシ履物店」。宮城県南部の大河原町で大正8年創業の99年目を迎える老舗だ。店名の由来でもある店主で2代目の佐藤義治(ヨシジ)さんは今年84歳。商品は桐下駄のみで、すべてオーダーメイド。 自ら山へ行き選んでくる材料は、地元大河原産の桐を使用しており軽い履き心地でありながらも目のつまったものは非常に丈夫だ。普通オーダーと聞くと1から削り出して、というイメージだが、実際には作成工程のいくつもの段階とそれぞれの状態のものをストックしてある。それによりオーダーを受けた一番近い状態のストックから作業を開始でき、内容にもよるが最短2日程で完成させることもできるそうだ。

年間の注文数は「よくよく少し」

下駄の注文は普段履きで使うような一般のお客さんからではなく、日本舞踊、お茶、お花などをしている女性からがほとんどで、男性では割烹の料理人やお坊さん、珍しいところでは応援団からなどもあるという。

用途により様々な形が並ぶが、人気なのは素材の良さがわかるシンプルなものだという。 仙台市内で妹のふみ子さんが鼻緒工房を営んでおり、そちらのホームページからの注文もあるそうだ。

現実は厳しい

戦前には町内に10件以上あった履物屋だが、戦後状況は徐々に変化していく。 国が材料である桐を統制品としたために、雑木(ぞうき。桐以外の材料はこう言われる)の下駄と靴が主流となっていく。それに伴い社会的な認識も変化していき、いままで当たり前に仕事場に下駄を履いて行ったものが適切な格好とは見られなくなった。

そして決定的だったのは車の普及である。運転がしづらく危険な下駄は、昭和30年代以降急速にその数を減らしていった。今では下駄を買いに来るお客さんは町内にはおらず、仙台市内などに数人だそうだ。年に数回の催事などの時だけ使用するという方がほとんどで、後は大切に保管されているため修理・調整の需要もほぼ無いという。

履物屋に未来はあるのか

後継者について聞いてみたが今のところ誰もおらずその予定もないという。震災後に「弟子になりたい」と来た人がいたが、義治さんはその申し出を断わったそうだ。自分の代で終わりだと決めていたし、一人前になるまで時間がかかる事。独立しても今の履物屋の現状では、いくらやる気があっても収入を得るのは難しい、というのが理由だ。

「正直下駄では飯食わんねぇね。私ももう目の前だ」
と語る義治さんだが、果たして本当に先行きは暗いのだろか。

昨今各自治体で積極的に行われているインバウンド事業、ここ大河原でも取り組んでいるというのを話したのだが、正直そういった町の事業についてはよく知らないという。しかしながら、春には千本桜が咲くこの町で、着物姿の外国人が町内産の下駄の音を響かせながら歩く、そんな風情のある、写真には映らない情景にこそどちらにとっても求めている答えがあるのかもしれない。

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