【加茂青砂の設計図 #12】記録しておくこと

連載:加茂青砂の設計図~海に陽が沈むハマから 秋田県男鹿半島】秋田県男鹿半島の加茂青砂のハマは現在、99人が暮らしている。人口減少と高齢化という時代の流れを、そのまま受け入れてきた。けれど、たまには下り坂で踏ん張ってみる。見慣れた風景でひと息つこう。気づかなかった宝物が見えてくるかもしれない――。
加茂青砂集落に引っ越して二十数年のもの書き・土井敏秀さんが知ったハマでの生活や、ここならではの歴史・文化を描いていく取材記事とエッセイの連載です。

土井敏秀】公文書であれ、その公文書を解読した本であれ、それを基盤にした小説であっても、先人たちが著した「歴史もの」に触れていると、確信めいたものが流れ込んできた。

「書く者同士には、時空を超えた信頼関係って、ありなのかもしれない」

ちょっと大げさか。具体的に説明する。

ひとつの時代の出来事を書き記そうとすると、幾つもの不都合な事実と、出くわす。先人たちは、それを、包み欠かさず、とまでは言えなくとも、できる限り記録しようとした。結果、書き綴ったのは、上司に忖度もし、表現を緩やかにした内容になった。

それでも、だ。隠したことは、隠したと、書き換えたことも、書き換えたと、誰かが発見できるよう、その「証拠」を巧みに仕込んだ。これは、後の世の「書く人」に、「この疑問から考えてみて」と託したことに、ほかならない。「暴いてほしい願い」と言ってもいい。組織を守らざるを得なくなり、嘘を記しても、いずれ誰かがその嘘を暴いてくれる。その願いが込められているのだ。「今」でなくてもいい。百年後、二百年後、千年後でも構わない。

この信頼関係があるからこそ、現実には「この道」を選んだが、選択肢はほかにもあった、ほかの道を選べる可能性があったことをも、知らせなければならない。それは「この時代が描いた希望」

男鹿半島・加茂青砂の海は、大昔から集落の人々の暮らしを支えてきた

「元慶の乱・私記」「元慶の乱と蝦夷の復興」「水壁」「羽州ものがたり」の 4冊を目の前に置くと、不思議な光景が浮かんでくる。いずれにも登場する、元慶の乱を終息に導いた出羽国権守藤原保則を、それぞれの著者田牧久穂、田中俊一郎、高橋克彦、菅野雪虫の4人が囲み、講義を受けたり、居酒屋で会話を弾ませたりしているのだ。「田牧さんっ、藤原先生にそんなに絡まないのっ」と諭されたりしてね。

『実録』の闕史、つまりは資料の欠失した部分が、乱時の後半にのみ存在する異様さが、このことを裏書きしている。それは、政府のさらす恥をも、同時に消去することであった。

田牧久穂「元慶の乱・私記」(無明舎、1992)

闕史の表現は「日本三代実録」の中で、次のように使われた。「三年正月十三日。是の日、出羽国に勅符す(闕史)」

政府の指示は、現地にすべて無視されているのである。このような体面に関わることを、律令政府は正史に残すことを欲しなかった。その意を体する『実録』の撰集者は、資料を削除、つまり闕史として、それこそ、うやむやの中に葬り去ってしまったのである

田牧久穂「元慶の乱・私記」(無明舎、1992)

撰集者の思いは、裏目に出たのか、期待通りなのか。田牧さんと田中さんは「闕史」だからこそ、推理力を働かせ、切り込んでいく。「ねえ、藤原さん、ここのところ、本当はどうだったんですか」「それはさあ……」「やはりね。私の推理、当たっているでしょ」「君の判断力に任せるよ」

こんなやり取りを、高橋さんと菅野さんは、笑顔で見守り、せっせと想像力の糧にしている―なんてね。みんな熱い。「蝦夷愛」だね。

元慶の乱以後の成り行きについて、田中のまとめを見よう。

蝦夷は集落ごとに武装し、それぞれが徒党を組むようになった。それは地縁血縁による結びつきであり、ひと言でいえば、蝦夷が武士化する過程であったのかもしれない。この後、陸奥国府や出羽国府の権威を利用して版図を広げる者が現われ、十一世紀中頃には彼らの勢力は国府を凌駕するようになる。それは陸奥の安倍氏であり、出羽の清原氏である。

この流れは最後に奥州藤原氏という巨大な勢力を生み出すが、藤原清衡の母は安倍氏の出で、その安倍氏の版図を包含した俘囚清原武則の支配地から清衡の台頭は始まっている。清衡の父が蝦夷でなかったとしても母は俘囚の娘であり、彼を支えた基盤には蝦夷俘囚がいたのである。奥州藤原氏とはそれら蝦夷俘囚に立脚した政権であり、これは蝦夷が為し得た最後にして最大の独立王国であったと言っていい

田中俊一郎「元慶の乱と蝦夷の復興」(郁朋社、2017)

「元慶の乱」が進んだ道の行きついたところが、「独立王国」だとするならば、大和朝廷が領土を拡大していった道、世界各地での侵略と、どんな違いがあるのだろう。「同じ土俵」の上り、物量に恵まれた方が支配する道を進んでしまったのではないか。武士が台頭する社会に巻き込まれ、結局は敗北を繰り返した。

そこには、国に抗ったり、悩んだりしながら「元慶の乱」に立ち上がった人々の希望や夢は、すでになかった。「秋田河以北を己が地と為さん」と掲げたスローガンで、小さな集団同士がまとまり、戦った。かといって乱後、一つの組織に統一されることもなく、元の小さな集団に戻った。だからこそ、「己が地」の希望や夢をデザインできたのではないか。そのデザインが描かれたはずの、あの設計図は、どこへ行ったのだろう。数多くの「小さな集団」のままで、なぜいられなかったのだろう。

不意の風にさらわれ、谷底にでも舞い落ちてしまったのか。ボトルメールとなって、どこかの海をまだ、漂っているのだろうか。

♪The answer, my friend, is blowin’ in the wind
The answer is blowin’ in the wind♪

(第1部おわり)

第1部の後書きで、第2部の前書き

この連載を書き進めていて、タイトルにひかれた一冊の本に出合った。「記録を残さなかった男の歴史 ある木靴職人の世界1798‐1876」(1999年)。著者はフランスの歴史学者アラン・コルバン。その帯には、著者へのインタビューの一部が紹介されている。「私の試みは、一切の痕跡を残さずに死んでいった普通の人々に、個人性を与えることができるかという問いに答えようとしたものです」

ヒーローからは程遠く、目立つ特異な人とも違い、もちろん犯罪者ではない―その時代で大多数を占めた普通の人々は、生きていたことを証明する言葉も残していない。それでも、戸籍に記載してある名前があれば、時代背景、社会環境、周りの人々との関係などを手掛かりに、一人の人物像を浮かび上がらせることができる。

こういう物語の組み立て方があるんだ。なんて魅力的なのだろう。この世界で生きてきた普通の人々は、かつての私であり、私たちであり、その生き方に触れることこそ、「生きるとは何か」を考えていく「同行者」に、ふさわしいのではないか。

連載企画を始めるきっかけに、男鹿半島に伝わる「蝦夷浜の伝説」があった。「暮らしに困らない楽園」はなぜ、大和朝廷の「討伐」に遭ったのか。この国の各時代や、世界中にあふれている理不尽さの、ほんの一例にすぎないだろう。誰かが悲劇の伝説を残し、伝え続けなかったならば、討伐された人々は、いたかどうかでさえ定かではなかったのだ。下って、この秋田、東北には「自律的な共同体」があり、権力側に抗った人々がいたのだ。

私たちは今、時代を移り変えながらも、同じ大地を踏みしめる。彼らはこの大地を通して、身近にいる。未来に向けた「新たな自律的な共同体」の設計図作りに、デザイナーとして参画しているのかもしれない。

第1部は今回で終了。第2部は内容を変えて、いま、書き残しておくべき昭和30年代(1950年代)中心の人々の暮らしを、聞き書きの形で記録します。

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