【加茂青砂の設計図】二番目の船「真漁丸」佐藤真成さんの物語②身の丈に合った宝物

連載:加茂青砂の設計図~海に陽が沈むハマから 秋田県男鹿半島】秋田県男鹿半島の加茂青砂のハマは現在、99人が暮らしている。人口減少と高齢化という時代の流れを、そのまま受け入れてきた。けれど、たまには下り坂で踏ん張ってみる。見慣れた風景でひと息つこう。気づかなかった宝物が見えてくるかもしれない――。
加茂青砂集落に引っ越して二十数年のもの書き・土井敏秀さんが知ったハマでの生活や、ここならではの歴史・文化を描いていく取材記事とエッセイの連載です。

「あん時は、涙が止まんなかった」。30年もの間、海での漁をともにした「真漁丸」が、コンテナ専用車でハマを離れていく。昨年11月のことだった。廃船したばかりのころ、真成さんは係留していた岸壁に行っては、寂しい思いを味わう日々が続いた。「朝マ、ハマさ行ぐべ。すると、ねえんだもの」。1年も経った最近、ようやくあの船がないことに慣れてきたという。

2・7㌧の小型漁船。友人を通して買った中古船だった。真成さんにはロープ一本から自分で用意した、という自負がある。16歳から働き、49歳で自分の船を持てたことで、夢を実現した。「小さいし、いい船ってわけでもなかったが、おれにすれば、身の丈に合った宝物。トラブルも多かったけどよ、それをひとつひとつ自分で直した。よその船で機関士、機関長をやってきた経験があるもの」

30年も漁をともにした「真漁丸」は昨年11月、解体処分した(提供写真)

苦い思い出と言えば、真っ先に思い浮かぶのが、買った最初の年。春に加茂青砂集落の港に運んできたばかりなのに、同じ年の秋の台風で、港内で転覆し沈んでしまった。まだ保険に入っておらず、修理するのに、購入代金と匹敵するほどの出費となった。だが、だからこそ「それだけ手をかけた分、思い出がいっぱいある」のだ。「老朽化して限界だったから、(解体も)ちょうどその時期だったんだ」と言い聞かせている。

真漁丸を買った当時は、ほかの港に所属するエビかご漁の船の機関長として、働いていた。午前3時半の出港に合わせて、自宅を出なければならない。

「あの頃は体力があったんだな。この年になれば考えられない。本業のエビかご漁に行く前に、自分の船を真夜中の零時とかに出したこともあった。時化(しけ)れば困るから、前の日に仕掛けた刺し網を、揚げに行くのよ」

船上でも釜でご飯を炊き、鍋で味噌汁を作った(昭和30年代、北洋の底引き網漁=提供写真)

エビかご漁の前はやはり、よその同じ港で底引き船に、乗っていた。船主は別におり、加茂青砂集落の友達が船長で、真成さんは機関長として雇われた。昭和30年代後半から40年代前半(1960年代)、出かけていた椿港と隣の船川港は、合わせて20隻余りの底引き漁船が操業していた。集落からの乗組員もいた。漁期は9月から翌年の6月いっぱい。カレイ類、タラ、サメ、ホッケなど、あらゆる魚種を対象とした。

「椿までは車で20分ぐらいの距離だろ。それが冬場は、道路に雪が降り積もっている。行く時間帯はまだ、除雪してなかった。一緒に行く2、3人が車の前をスコップで雪かきしながら、進んでいくんだ。午前3時に出発して、夜が明けた7時ごろに着いたことがあった。その日はたまたま時化で船を出せなくて助かった。仕事に行く時間に、子供の具合が悪くなることもあった。途中港に寄って、船のエンジンをかけてから、病院に連れて行ったりもした。いろいろあったよ」

真成さんは60歳を機に、ほかの船に雇われるのをやめて、「真漁丸」と一緒のころに買った、船外機付き小舟「海幸丸」の2隻で漁をしてきた。「真漁丸」で年間を通して、魚を狙う。6人乗りの釣り船の許可を取って営業したこともある。「海幸丸」では、春先のワカメ、アカモク漁、夏のサザエの刺し網漁に従事した。(続く)

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