【加茂青砂の設計図】一番目の船「幸勝丸」大友幸雄さんの物語①ど真ん中の剛速球

連載:加茂青砂の設計図~海に陽が沈むハマから 秋田県男鹿半島】秋田県男鹿半島の加茂青砂のハマは現在、100人に満たない人々が暮らしている。人口減少と高齢化という時代の流れを、そのまま受け入れてきた。けれど、たまには下り坂で踏ん張ってみる。見慣れた風景でひと息つこう。気づかなかった宝物が見えてくるかもしれない――。
加茂青砂集落に引っ越して二十数年のもの書き・土井敏秀さんが知ったハマでの生活や、ここならではの歴史・文化を描いていく取材記事とエッセイの連載です。

一番目の船「幸勝丸」大友幸雄さんの物語①(昭和11年3月6日生まれ)

【土井敏秀】秋田県・男鹿半島に引っ越して来て、最初に「ど真ん中の剛速球」で、声がけしてくれたのが「幸雄さん」である。1998年(平成10年)4月、加茂青砂集落の春の例大祭の懇親会の席だった。会には、各家々の戸主の男たち30人も集っていた(23年後の2021年=令和3年=は、コロナ禍の影響で中止となったが、ここ数年は5、6人の集まりでしかなくなった)

新しく住民となった私は、「これからよろしくお願いします」のあいさつを兼ねて、ひとりひとりに酒を注いで回った。だれもが「分からないことがあったら、おれのとこに来い」と言ってくれた。「地縁血縁の全くない」地へ移り住んだのである。分からないことだらけなのは、当たり前だった。みんな、どんなやつかを探りながら、気を使ってくれたのだと思う。

「おめ、どごの馬の骨だ?」。幸雄さんの前に膝を進めたときの開口一番は、このせりふだった。大きな目を見開いたまま、遠慮なしに聞いてきた。私ももちろんそうだが、幸雄さんはかなり酔っていた。新聞記者を24年やっていたこと、海のそばで暮らすのがあこがれだったこと、加茂青砂の景色を見て、一目で気に入ったこと―などなどを話した。「あしたは、覚えていないんじゃないか」と思い、翌日記事のスクラップブックを持っていく、と約束した。

スクラップブックをめくった幸雄さんは、「わがった」と一言。以来、何十回、いや23年の付き合いだから、百何十回か、となく酒を酌み交わしてきた。老人クラブの旅行で、隣のお膳の幸雄さんと、朝からビール瓶を並べる食事を、初めて経験もした。

おっと。幸雄さんからスマホに電話だ。

「サワラ釣ったど。今、脂乗ってるからよ。 おめに食わせっと思って。食うべ? すぐ取さ来い」

蟹工船

その写真は、昔の写真を探してもらっているうち、予想もしていなかったところから、出てきた。長女の中学生時代のアルバムに、大切に貼ってあった。船上で仲間と一緒に写っており、幸雄さんが三十代のころの写真だという。作業着の上に厚手のゴム合羽を着こみ、毛糸の帽子も欠かせない。この日は暖かい日差しが射していたのだろうか。みんな笑顔でいい顔をしている。疲れなど全く感じさせない。元気に働いている雰囲気が伝わってくる。

北洋での「蟹工船船団」の川崎船船上。幸雄さん(右から4人目)のほか、加茂青砂集落からの数人も、一緒に働いていた

この頃、長女は小学生低学年。娘さんはこの一枚を手に、思春期を迎えてもずっと、幸雄さんが働いている北洋に思いをはせて、無事を祈っていたのだろう。親思いだなあ。

幸雄さんは1955年(昭和30年)、19歳の時から、オホーツク海、ベーリング海など北洋で、カニ漁に従事する「蟹工船」で働いた。海底に仕掛けた刺し網を引き揚げ、掛かっているタラバガニなどを外す作業に当たっていた。その作業に使っていた「刺し手」を見せてもらった。布でできた大きめの手袋の手のひら側に、毛糸を2本、細かく刺し縫いしてある。衣服の補強や保温のために、糸を刺し縫いした「刺しこ」「こぎん刺し」と同じ。衣服の「手袋バージョン」ということになる。漁に行く前、妻の玲子さんが作って持たせた。セーター、マフラーも何枚編んだか、数は覚えていない、という。「愛ですねえ」と話を向けたら「なあにが。仕方なくさ」と真顔でかわされた。補強しても切れやすい。刺し手は、会社からも段ボールひと箱分、支給されるようになる。それでも足りない。切れたのは自分で繕ったという。

「昔はゴム手袋がなかったろう。少しでも温かくしようと、布に糸、刺すんだよ。その刺し手でも、何杯もカニ外してりゃあ、手冷たくなる。船には、お湯を沸かしてる1斗缶が置いてあるんだ。作業の合間合間に、両手を突っ込む。そうでもしなけりゃ、とても続けられない。凍傷になったやつもいた。耳や鼻も真っ赤になって、それが消えないんだ」

船は航行中にも着氷した。これを落とさないと、転覆の危機にさらされた

作業のため両手に、その手袋をはめる。左手で網に絡まったカニを持つ。右手で持ったカギ状の道具を使って、足を一本一本、網から外していく。

「カニを持つ左手の手袋の方が、こすれて糸がほつれやすい。そういうのは自分で針を刺して直すのさ。外す道具も、使いやすいよう、鉄棒をストーブで焼いて曲げたり、削ったりするのさ」

ここで、蟹工船について説明しておこう。

カニを捕獲し、それを缶詰にするまでのすべての工程を、一つの「船団」内で処理するシステムである。缶詰工場を兼ねた母船を中心に、漁場を探し、海底に刺し網を敷く独航船3、4隻、それとカニを網から外す漁船員が乗る川崎船10隻が船団を形作っていた。独航船は名前の通り、単独で航行するが、川崎船は毎日、漁を終えれば、母船に引き揚げられ、翌早朝、海に降ろして再び、漁場に向かった。

幸雄さんが川崎船に乗って働いていた昭和30―50年代は、大手水産会社4社が各社1船団ずつ所有し、函館を母港に操業していた。北洋の漁場に行くには、1週間ほどかかった。「1万トン級の母船でさえ、それもトモ(揺れが少ない船尾の方)から波をかぶった」(幸雄さん)荒波を進んだ。そこで4ヵ月、長ければ6ヵ月も沖に錨を下ろしていた。その間、乗組員は陸に上がることはできず、一日の休みもなく漁に従事した。(続く)

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