【加茂青砂の設計図】4番目の船「喜代丸」②「北海のユウジロー」加茂へ帰る(下)

連載:加茂青砂の設計図~海に陽が沈むハマから 秋田県男鹿半島】秋田県男鹿半島の加茂青砂のハマは現在、100人に満たない人々が暮らしている。人口減少と高齢化という時代の流れを、そのまま受け入れてきた。けれど、たまには下り坂で踏ん張ってみる。見慣れた風景でひと息つこう。気づかなかった宝物が見えてくるかもしれない――。
加茂青砂集落に引っ越して二十数年のもの書き・土井敏秀さんが知ったハマでの生活や、ここならではの歴史・文化を描いていく取材記事とエッセイの連載です。

土井敏秀】「家ではニワトリ、豚、ヤギ、綿羊も飼っていた。その世話は男の子供のオレが担当だった。集落の家々には、残飯を入れる桶があって、朝起きたら、それを集めに回るのよ。豚の餌用。家畜は1頭ずつ。子豚を預かって、20kg以上に育てる。綿羊は秋に農協の職員が来て、毛を刈った。両方とも生活費の一部になった」

「棚田での田んぼ仕事は、ほとんど手伝わなかったが、家には籾を脱穀する小屋、籾を入れる倉庫もあった。籾殻はニワトリのエサにした。籾を狙ってネズミが来るから、猫も飼っていた。冬は猫抱いて寝るのや。暖ったけど。水くみは子供の仕事。木の桶2つ天秤で担いで近くの川からくみ、大きな甕に移す。飲み水だけでね。ドラム缶で炊く風呂の水も。200リットルもあるドラム缶だからな。今度は湯を沸かす薪や。木は大人が切ってきたが、その木をまさかりで割って薪にする。炊き付け用に、杉の葉も拾ってこないといけなかった。家の中さいると、怒られてな」

漁の合間、仕掛けた網の場所を示す浮標「ボンデン」の修理をする繁喜さん

「3、4月の凪のいい日は晩御飯の後、父親ともう一組の親子と4人で、櫓をこいで、まだ船外機なんてなかったからな、ヤリイカの建て網さ行くのや。海面から底まで一枚の網を広げておいて、網に引っ掛けて取る。午後8時、零時、午前3時、夜明けと決まった時間に、網を上げてはヤリイカを外す。沖の岩場に屋形を立て、カーバイトのガス灯を頼りに作業するのや。朝に終わってから学校だべ。授業中は居眠りしてた。先生も分かっているから、何も言わなかった」

「5月になると、ワカメだべ。昔は防波堤がなかったし、ハマ全体が玉石の砂利浜だった。そこに柱も立てて、ムラ総出で干すのよ。盛りになると、学校が3日続けて休みとなった。ワカメは何回もひっくり返して干さなきゃなんねえ。1日で終わらないから、夜は家の中さ運んで、中には針金があちこちに引っ張ってあるから、そこに干す。干しワカメは、半島の内陸の農家のコメと物々交換したり、売って味噌や砂糖、お菓子を買った。大人は片道12kmの峠道を、背負って運んだんだ。黙ってりゃ食えない。捕ったヤリイカも、人を頼んで地元のカアサンたちだったが、同じ峠道の先の魚屋まで運んでもらった。額もはっきり覚えている。往復250円、多い時で20円プラス。たったな。過酷な労働だよ」

舗装された海側の道路、防波堤が造られたこのハマは、一面玉砂利の海岸だった。そこで毎春、天然ワカメを干した

農家から加茂青砂の漁師の家に嫁いできた88歳のバサマの話は、過酷さを裏付ける。「水揚げした魚を運んだ。みんながやっているし。でも、このまま実家さ帰りたい、と何度思ったことか。今なら、お金積まれても絶対行かない」

繁喜さんは中学校を卒業すると、北海道の親戚の漁船で下働きから仕事を始めた。21歳から24歳までは、南氷洋のクジラ漁船団に乗り組んだ。再び北海道の底引き漁船に戻り、船長の資格を取るための勉強にも励んだ。小樽にあった「国立小樽海員学校航海課程」に通い、航海技術、機械などを学んだ。その一方で「真夜中の12時にネクタイを締めて、夜の街に出るのや。夜明けまで飲んでいたな。船は休み!」という「波乱万丈」も経験していた。

「子供のころ、その暮らしがいやでいやで、たまらなかったんだろうな。それが蓄積していたんだべ。ある程度、一人前になると、あんなところに絶対帰らない、帰るもんか、と決めていた。だけど、帰ってきてしまった。サケがふるさとの川に帰るみてだな。誰かに呼ばれたんでねべが」

観光船の船長をし、結婚して子供も生まれた。父母、祖母、妻、子供2人の計7人家族の暮らしを支えることができた。だから78歳の今。「帰って失敗した」とは、ぜんぜん思っていない。全く後悔がないから、この人生を全うしたい、と晴れやかに言うことができるのだ。(つづく)

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