能登半島地震から3カ月。私たちに何ができるのか?東北の農山漁村をくまなく歩き、地元の暮らしに寄り添う「地元学」を提唱してきた仙台市の民俗研究家・結城登美雄さん(78)に話を聴く記事の後編です。 (聴き手・ローカルジャーナリスト 寺島英弥)
前編はこちら
表層だけのストーリーが伝えないもの
―能登半島地震の被災地の象徴のように報じられたのが、大規模火災が起きた輪島朝市(輪島市)。やはり観光名所と紹介されていました。結城さんは著書『地元学からの出発』(農文協)の中で、〈売られているのは干物・乾物、海藻、小魚、数種の山菜と漬物。庭先に咲いた少量の花だけの店もある。商業の臭いは薄く、その日の恵みをまっすぐ届け交換する女の生活市〉と書かれましたね。
白米千枚田(同市・前編参照)のように、海や山、それぞれの土地で自然と向き合い、いろんなものを捕ったり作ったりし、持ち寄り、互いの暮らしを支えてゆく場。買いに来てくれる人たちとお付き合いをする場。それが「市」であり、輪島朝市もそう。「おう、久しぶりだね」「もう、これしか残っていないのか」と、なじみ同士の会話が楽しい。だから、地元の人たちは悲しみ、残念がっている。観光やお金でとらえるのは薄っぺらな見方だ。
「金沢百万石」の言葉も同様、栄華の代名詞じゃなく、そこに生きた「民」が作り出した豊かさ、武家が奪い取った百万石。上から表層を切り取ったストーリーは、ローカルに生きる人の暮らしを伝えられないし、そうした報道は東北の震災でやったことを繰り返しているだけに見える。
冬を生きるために人は「作った」
―能登半島地震の記事に「ブリ大根」の話がありました。倒壊した家の台所で妻が亡くなり、輪島塗の重箱の中にブリ大根が入っていた(1月7日の朝日新聞デジタル)。きっと正月のごちそうに作ったのでしょう、能登の郷土料理ですね。
そう、冬は大根をいかにおいしく食べるか、組み合わせに知恵を絞るのが日本の食の流れ。能登の冬の海で揚がるのが寒ブリ。だからブリ大根が郷土料理になった。ブリが獲れない東北では「とり大根」が冬の食卓の中心になった所が多い。イワシ大根の所もある。食を考えるには田んぼだけ見てもだめ。冬に備えて生きるため、人は家の周りにどんなものを作っているか、だ。木の実や、柿のような果樹もそう。
冬が厳しい東北の人間は、サケが川に帰ってきて命を救われ、死に絶えることを免れた。秋田には大きな石にサケの絵を彫った「鮭石」という、先人の感謝の信仰の証がある=旧矢島町(由利本荘市)の魚形文刻石=。サケを河口で捕り尽くさず、上下流で共に生き延びられるような漁もした。新潟の旧山北町(村上市)の大川には「コド漁」という伝統漁法が残る(注・ 川底に杭を打ち、木の皮や柳などをつけた箱型の仕掛けを作って誘い込む )。生きる基本は「作る」ことなんだ。
―海に船を出し、川で仕掛けをし漁をする。畑で野菜を育て、山で山菜や木の実を採り、そして加工する。すべて、生きるために「作る」ことですか。
都会の人間は、お金を生活の中心に、スーパーやネットで「買う」ことしか知らない。輪島朝市も、観光で「買う」所にしか見えなかった。都会は、たくさんの若い人たちも苦しみもがいて、お金を求め、お金に追われる場所になった。お金しかない価値観は、もうだめだろう。生きる力が、どこから生まれてくるのか。東北でも能登でも、農山漁村は自然と向き合って自らの手で「作る」、そして、生きることを学ぶ場所。作る力は生きる力。次の世代にそんな力を身に付けてほしいんだ。
浜の母ちゃんが教えた「豊かさ」
―結城さんは著書『東北を歩く』(新宿書房)で、北上町十三浜の話を紹介していますね。
そう、かつて宮城県が知事肝いりで「食育の里づくり」を掲げ、県庁の人たちから「どこの街がよいか、石巻か、古川(現大崎市)か」と相談された。僕は「北上町(現石巻市)がいい」と言うと、口をそろえ「あの小さな町は何もない」。店の数でしか地域を見ていなかった。
そこで北上町の十三浜で母ちゃんたちを集め、日常生産している食材の聴き取りをしてみせた。その結果が、庭先の畑の野菜80種、里山の山菜40種、キノコ30種、果実と木の実30種、海の魚介と海藻約100種、北上川のウナギ、シジミなど20種余り、合わせて約300種。「何もない町」と呼んだ役人たち、知事もたまげた。「豊かさって何か、母ちゃんたちから学ぶことだ」と僕は言ったよ。
買って食べて、被災地の生業を支える
―三陸の海と北上川に面した北上町十三浜も、津波の被災地となり300人近い住民が犠牲になりました。浜々の集落と、388隻あった漁船の大半が流され、地元特産の養殖ワカメも壊滅しました。前編で紹介した佐藤清吾さんら住民たちはそこから浜の復興を模索し、味と品質で全国に知られる「十三浜ワカメ」を復活させました。その努力は並大抵でなかったし、福島第一原発事故の風評、今の温暖化の影響も含め、良い時も悪い時もある。浜の歩みを結城さんはどう見てこられましたか。
十三浜ワカメの復活を応援してきたのが、「買って食べて支える」街の消費者たちだ(注・震災後、雑誌『婦人之友』の仙台在住の編集者、小山厚子さん(67)が浜の住民と全国の読者らをつなぎ、2013年に始めたワカメの購買活動。20年からは非営利の『浜とまちをつなぐ十三浜わかめクラブ』として自主運営している)。
「今年は採れるかな」「売れるのかな」という不安は、自然相手の生業の人には常にある。品質は変わらないのに姿や形で等級を選り分け、値を決める、理不尽な市場原理にも悩まされる。そこで「私たちのために採ってください。今年も食卓が待っています」と言われれば、元気づけられるし、頑張って収穫するじゃないか。
わかめクラブは、ワカメやコンブの袋詰めも現地で手伝い、地元の人たちと交流し、全国に購買者を毎年募っている。「東北へ、能登へ、支援に行ってきた」じゃない。10年以上も変わらずに、「私たちが食べる物を作ってください。これからも、ここで」と生業と暮らしを支え続け、東北の浜の食文化を広めているんだよ。
「自給率38%」が切り捨てるもの
―「作る」生業の場である農山漁村へのあるべき支援の形ですね。住民がそこで暮らし続け、自分たちの力で復興してゆくのを街の人々が手伝う。支援というよりも、収穫の苦労や喜びを分かち合い、共に生きていく。そう言ってよいのでは。
人間が生きるために一番大事なもの、それは食べ物だよ。僕は満州で生まれ日本に引き揚げ、人が死ぬほどの飢えを体験し、それが原点になった(前編参照)。食べ物をつくる農山漁村こそが大切な場所。だから、食を大事にする政治は、人間が生きることを大事にする政治と考えてきた。
ところが、日本の今の食料自給率を知っていますか、たった38%だ。国を挙げた支援もせず、「限界」「消滅」が経済の流れ、結果であると、豊かな食べ物を作ってきた村々を切り捨てている。そんな、お金の価値観だけで人間は生きられるのか、立ち止まって考え直さなくては。とりわけ、これからを担う若い人たちには農山漁村のかけがえなさ、力を合わせて生きることを学ぶ場にしてほしいし、それぞれの現場で実践を積み上げていってほしい。
◇
*最後に、結城さんが『地元学からの出発』で紹介した能登の話を、もう少し引用したい。
〈海に突き出た能登半島は(中略)津々浦々に小さな漁の営みがある。能登はまた丘陵地ゆえに山ひだが多く、小さな谷で農の営みがある。海の定置網のように産物は多彩ではあるが大量ではない。山の山菜のように、手間ひま惜しまぬ女たちが季節の少量の産物を日々に持ち寄る場が市になった〉〈それでも海の大漁、畑の豊作のときは、さすがに市だけではさばき切れない。男たちが頑張って獲ってきた魚だもの、1匹だってムダにはすまいと、行商用のリヤカーを引いて町中歩いて売りさばく〉
それら海の幸、畑や山の幸を町場の人が買って食べ、支え合う関係が能登の暮らしだった。いま能登の被災地へ向かう人たちが、そうした話をじかに聴くことが、その土地らしい復興とは何か、支援とは何か、考える機会になるのではないか。