震災から奮闘11年、南相馬の農家が引退「集いの場づくりに余生を」

寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】「ほら、大根の葉が伸びている。塩害に強いかもしれない」。それが初めての取材で聞いた言葉だった。南相馬市原町区萱浜(かいばま)の篤農家、八津尾初夫さん(72)。東日本大震災、福島第一原発事故から間もない2011年5月初め、津波で全壊した自宅の潮まみれの畑で早くも野菜の栽培試験に取り組んだ。妻を津波で亡くしながら「農の復興」が報いる道と再起。多くの農家仲間を失った地域での奮闘も、しかし孤独は深く、今春、引退を決めた。風景も変貌した古里の住民の憩いや農業相談の場をこれから自宅に開きたいという。

津波で妻を亡くし、再起するも

八津尾さんを久しぶりに自宅に訪ねたのは、東日本大震災から11年を迎えた3月だった。住所は南相馬市原町区萱浜で震災前と変わりないが、津波で被災地となった浜沿いの旧集落跡は現在、広大な復興工業団地と、整然と基盤整備された農地に変わった。現地再建を望んだ住民は、海岸から2キロ近く内陸に造成された住宅地に移り、八津尾家も新しい家々の一角にある。道路に面して「八津尾農園」の看板が掛かる事務所に、八津尾さんはいた。

震災後、八津尾さんが本格的に農業再開を目指したのは2015年初めのこと。休耕状態だった農地にビニールハウス数棟を建て、新しいトラクターやトラックをそろえ、稲作はじめ野菜作りや育苗を手掛ける夢を温めていた。が、「農業機械類はもう処分した」と語った。

震災前、八津尾さんは24棟、計60アールのハウスで花や野菜の苗を作って出荷した。春に4ヘクタール、秋に9ヘクタールのブロッコリー栽培、水田も15ヘクタールあり、繁忙期には地元の主婦らのパート従業員も働いた。そして、あの日の大波。萱浜の海岸では高さ20メートル以上に達したという。八津尾さんは同居する孫ら家族を、妻一子さんは本家の老夫婦を乗せて2台の車で避難したが、一子さんの車だけが津波にのまれて帰らぬ人となった。

津波で集落とともに流された自宅跡。たくましく生き続けるケヤキから勇気をもらうという

津波で区長も亡くなり、八津尾さんは後任に選ばれて、悲しむ間もなく避難先の住民と市役所との連絡、復旧作業の世話役などを背負った。20キロ余り南の原発事故への対応が重なって心労も重ねた。「農家仲間も3人、夫婦で亡くなった。残った自分がその分まで担わなければ。地元で生きられる場をつくるため農業を再興したい」との思いが支えだった。

往時は70戸あった農業集落の萱浜では津波で77人が亡くなり、農業の担い手がいなくなった。基盤整備された水田の担い手に名乗りを上げたのは数人で、八津尾さんも使命感から希望したが、結局、さまざまな事情で実現しなかったという。失意の八津尾さんをそれから取り巻いたものは、何でも相談し助け合った「仲間」のいない孤独だった。農家の先輩たちも高齢で逝き、ある友人は家族を亡くして萱浜を去り、新しい町で店を開き再出発した。

新しい人生の役目に「農園文庫」

「いつの間にか七十歳を過ぎ、もう担い手の未来よりも、もっと地域のためにやれることが
ある。そう思い立った」と八津尾さんは語り、世帯主も同居する長男に譲ったそうだ。

いま準備しているのは仮称「八津尾農園文庫」。事務所の本棚には、農業に関する理論書の
全集、さまざまな作物や農薬の解説書、栽培の実践知識の本などがぎっしり並ぶ。「福島県農
業賞」にも選ばれた篤農家の現役時代、技術の探求のために集めたり、専門家から譲られたり
した貴重な財産だ。

「八津尾農園文庫」の準備をする八津尾さん=2022年3月8日、南相馬市原町区萱浜

「21歳から父の手伝いをして農業の基本を学び、それから妻と一緒に半世紀近く、花、野菜、稲と向き合い、模索を積み重ねた。その知識や技術を悩んでいる農家や、就農しようとする人、家庭菜園をもっと楽しみたい人、花作りを愛する人に伝えたい。好きな時にここに来てもらい、お茶を飲みながら相談に乗り、求めている知識を提供し、経験を話したい」

いまビニールハウス1棟を農業用地から転用する手続きをし、日よけの幕を取り付け、本棚やテーブル、椅子、コーヒーメーカーなどを置き、人が集う場所をつくる計画という。

「近所を散歩する人たちも下を向いて元気のない姿だ。みんな、あの震災で失ったものを心に抱えている。だから『寄って話をしていって』と声を掛ける。農園文庫では、そば打ち教室のような催しもできたら。子育て中のお母さん、孫と過ごす年配者たちのために、子ども向けの絵本や物語もたくさんあれば。家庭に眠っている児童書の寄付を募ろうと思う」

「農園文庫」開設を予定する自宅前のビニールハウス

忘れないヒマワリ畑の感動

傷ついた人の心を慰め、集える場を古里に―。そんな強い思いを抱き、八津尾さんは被災か
ら間もないころの萱浜に、まぶしいほどに輝く風景をつくり上げたことがある。

「復興ひまわり大作戦」。そんな命名で2011年6月、100万粒のヒマワリの種を、市内の農業関係者や新聞の協力も得て募った。亡くなった農家仲間のブロッコリーの畑など計7ヘクタールを、農地復旧を兼ねて耕し、畝を掘り、集ったボランティアに種まきをしてもらった。地元や宮城県、遠く兵庫県からも有志220人が集まり、荒れ地となりかねた畑を、祭りのにぎわいの場に変えた。その畑には8月のお盆を前に見渡す限りのヒマワリが咲いた。

亡くなった農家仲間たちの畑に咲かせたヒマワリ。住民の慰霊と集いの場になった=2011年8月9日、南相馬市原町区萱浜

「萱浜の犠牲者を慰霊し、住民の心を励ます風景をつくれたら」と当時、八津尾さんは語った。それは名画『ひまわり』で見た、戦死者が眠るウクライナの村に咲く無数のヒマワリとも重なった。さらに9月の彼岸前には、ヒマワリ畑の前で「祈・絆・希望」という名の集いを仲間と企画し、歌や屋台、相馬盆踊りで住民と来訪者ら数千人が楽しみ、交流した。

その感動を、八津尾さんは忘れない。萱浜の海岸近くにある八津尾さんの家の跡は広い更地の一角になり、津波にも耐えた8本の樹齢100年近いケヤキだけが目印だ。その姿に、いつも勇気をもらうという。古里の風景は変わってしまったが、ここで生きてゆく人たちが生み出せるものもあるのではないか。南相馬市から委託されている街路用の花、計2万株の苗作りとともに、これからの人生の役目にしてゆけたら、と往年の篤農家は考えている。

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