かつて仙台にあった国立のデザイン研究機関「国立工芸指導所」を探った

阿部岳史(東北ニューススクールin宮城野)】仙台に「国立工芸指導所(以下指導所)」という国立のデザイン研究機関があったことを知る人はそれほど多くないのではないだろうか。かくいう筆者も仙台にそのような場所があったことは知らず、「近代デザイン発祥の地」というタイトルに惹かれて受講することにした。

「特長がない」と言われがちな仙台に「デザイン発祥の地」というすごい場所があったなんて。これは知らないともったいないんじゃないだろうか。そんなワクワクした気持ちで講座へと参加した。仙台市宮城野区の榴ケ岡市民センターで行われた指導所の講座と、講師である小松大知さんへのインタビューを通し、「足元にある仙台の魅力」を探していく。

かつて国立工芸指導所があった場所での講座

今回の講座は「工業デザイン発祥の地を覗いてみよう」というタイトルで行われた全3回の講座である。1回目の講座は東北工業大学名誉教授である庄子晃子先生と、産業技術総合研究所(以下産総研)東北センター所長である蛯名武雄さん、東北工業大学教授近藤祐一郎さんによって行われ、国立工芸指導所についての取り組みや後の産業総合研究所にどのように活かされたのかを学ぶ講座だった。

2回目の講座はプロダクトデザイナーの小松大知さんによる講座。3回目は東北工芸製作所取締役佐浦みどりさんによる、玉虫塗の講座と体験が行われた。講座の会場である榴ケ岡市民センターはかつて工芸指導所があった場所のすぐ近くにある。

かつて工芸指導所があった場所

国立工芸指導所とは

指導所は昭和3年(1928年)仙台市二十人町通り(現宮城野区五輪)に創設された。「日本の工芸を近代化することで輸出振興を図ること」「東北の産業を開発すること」の2点が設立の趣旨である。かつて指導所があった場所は現在道路となっており、現宮城野中学校の角に記念碑と石碑が立ち、その側に碑文がある。その石碑には「明治以来ひたすら西欧追従に急な時流の中で、優れたわが国伝統の工芸に着目し、その近代化をはかり輸出を振興するため、さらには東北の産業開発の一翼をになって昭和三年國立工芸指導所はこの地に創設された」と記されている。

現宮城野中学校の角には指導所の記念碑と石碑がある

指導所は全国から集めた技術者を滞在させるための宿泊所も備えていた。全国の木工・金工・漆工などの技術者が指導所に集まり、その技術の近代化に励んでいたようだ。

昭和15年(1940年)に東京に本所が新設されてからは東北支所として活動。昭和27年(1952年)より「産業工芸試験所」と改称し仙台は東北支所となる。67年には苦竹に移設。後の産業総合研究所へと繋がってゆく。開発された技術の一例として「玉虫塗」「成形合板」「人工木目」などがあり、現在も街中で見られるものとして、カッコウ公園の歓迎塔(原町公園)、こけし塔(西公園)がある。

仙台に設立された背景として、当時の商工省大臣藤沢幾之輔が宮城県出身であり、東北の産業振興を目的として設立案を提出したことにある。ちなみに直接の立案者である吉野信次は「大正デモクラシーの父」吉野作造の弟である。当時は第一次世界大戦後の不景気や東北の冷害が相次ぎ、東北の産業振興が政治問題となっていたことが挙げられる。

「近代デザイン発祥の地」と言われる由縁は?

2023年11月11日、「近代デザイン発祥の地と言われる由縁は?」というタイトルで、講師である小松大知さんの講演が始まった。

指導所は産業技術・デザインの研究を開始し、様々な作品を作ってゆく。1929年には第一回の展覧会が行われ、地元の人からは好評だったそうだ。展覧会は毎年行われ、「指導所スタイル」と呼ばれるほど世間の反響を呼び、1933年9月には日本橋三越での展覧会も行われた。

指導所について語る小松大知さん

その折に、指導所に転機が訪れる。来日していたドイツ人建築家ブルーノ・タウトが指導所の作品について問われた際、「いかもの(まがいものの意)」と痛烈に批判する。指導所のスタイルが欧米や西欧のデザインの表層的な模倣に留まり、日本人特有の歴史・文化・体型を反映させたデザインがなされていないことを指摘したのだ。タウトはその後指導所に顧問として招聘され、その後の指導所に大きな影響を与えることになる。

タウトは指導所に対し、国内外の優良品を集めて観察すること、「規範原型」を作ることを指導した。「規範原型」とは量産品のためのモデルのこと。国内外の優良品を集めて観察・デッサン等を行い、それに基づいたデザイン・設計を行う。試作品を作り、それを厳密に批判・評価・修正を行う。その工程を何度も繰り返し原型の完成に至る。

「調査研究→デザイン・設計→試作→評価→完成」といった流れは現在のデザインのプロセスと全く変わらない。タウトの指導は、指導所の若き所員たちの情熱を掻き立て、グローバルなデザイン手法を会得するまたとない機会となった。いつしか「見る工芸から使う工芸へ」という理念が、指導所の職員間で合言葉となった。

小松大知さんが復刻した指導所の作品

タウトは1933年11月から1934年の3月まで指導所の顧問として在籍した。自身の意見や批判が中々反映されない日本の官僚構造に苛立ちを見せつつも、情熱を持って所員を指導していたようだ。

1943年頃になると、国内で戦争のムードが高まっていく。国の研究機関である指導所にも「最低限の資材と労力による最低必需品の確保」の要請がかかり、いわゆる「戦時規格品」の時代に突入する。水産皮革の靴や、敵を欺くための木製戦闘機などの代用品も多く研究されていた。

戦後もしばらくは、進駐軍用の家具の設計と生産指導が課された。3ヶ月のうちに30品目の設計を突貫作業で完了。つぎに全国約80の工場と連携して、95万点の家具類の製造を1949年まで続けることになった。指導所はこの大量生産時代を乗り越えたことで、量産技術や工作技術の進歩に大きく影響した。

1950年代以降、戦後の動乱が落ち着きつつある中、本格的に工業化や国際輸出への要請が高まっていく。JIS(日本工業規格)の制定作業が始まり、多くの規格の制定に携わるようになる。また、東京芝浦電気(現・東芝)からデザイン委託を受けて扇風機開発も行った。当時は自社でデザインを行うという文化がなく、これがデザイン事務所と生産者の協同事業のモデルケースとなったと言われている。

指導所のロゴ

1952年、より産業(工業)を意識した研究開発方針としていくために、名称を「産業工芸試験所」と改組。67年には「東北工業技術試験所」として苦竹にその機能を移す。

指導所に関わったデザイナーも紹介された。剣持勇、豊口克平、芳武茂介、秋岡芳夫などが指導所にて研鑽を重ね、日本の工業デザインを支える存在となる。調べてみると、いずれも日本を代表するデザイナーだ。

以上が指導所の歴史である。輸出産業の振興やデザイン・技術の近代化のために設立され、ブルーノ・タウトの指導によりデザインの手法やプロセスが確立していく。そして戦中・戦後における膨大な設計量と生産を乗り越えることでより量産化の技術を洗練させてゆき、さらにはJISの制定や偉大なデザイナー達を輩出するなど、その功績は大きかったことが伺える。まさに「近代デザイン発祥の地」と言える。

講座の席は全て埋まっており、市民の関心の高さが伺えた。参加者に感想を伺うと「父がずっと木工をしており、自分も真似をして遊んでいた。仙台で国立の指導所があると聞き、参加しようと思った」「昨年に引き続いて参加した。自分が住んでいる所にこのような施設があることを知り、嬉しく思っています」と話してくれた。

「足元を見ることの大事さ」小松大知さんインタビュー

講座後、小松さんと話す受講生

講師の小松大知さんはTORCHというデザインスタジオを設立されており、指導所で作られた作品の復刻プロジェクトも行っている。指導所についての講演活動やプロジェクトを始めたきっかけについて伺った。

「学生時代に、指導所の存在は知ってはいました。ただ、当時はそこまで強い思い入れはなく、仙台に戻って、何か始めたいなと思った時、そういえば指導所ってあったな、と。そういうところを仙台の人に知ってもらえたらと思ったのがプロジェクトに携わるようになったきっかけです」

TORCHではかつて指導所で作られた人工木目のキャニスター(保存容器)、非円形ろくろを再現したサラダボウルなど、指導所の技術・研究の先進性が感じられるものを復刻している。

TORCHが復刻した指導所の作品(写真提供:TORCH)

小松さんの資料の中で、一際目に留まる文章があった。

他の地域の文化を羨まず、足元にある文化や歴史を見直し、価値を見出すこと。現代の暮らしに生かすこと、が新しい仙台の姿になるのではないでしょうか。

この点についても、小松さんに尋ねてみた。

「仙台に生まれて、仙台に帰って来て、ずっと思うのは、仙台は『住みやすいけど特色のなさ』を感じてしまうんですよね。それは戦火があったからでもあるけれど、古い建物や街並みが残っていないから、自分たちの足元・根っこみたいなものがどんどん剥奪されてしまって、誇れるものがないよねとなってしまうのかもしれません」

「自然と街のバランス感覚は他の地域にあまり見られないところだと思います。暮らしの面で見ると、すごくいいところは沢山あるんですけど、文化や歴史の面ではもっと掘り下げていったりできるんじゃないか、それを(市民)全体で楽しんでいくみたいな風潮ができたら、よりいいな、なんてことは思います。小さな文化や隠れた何かを掘り下げる人が増えたら面白いなと思います」

「人に例えていいのかわかりませんが、キャリアという言葉がありますよね。語源は『車輪の轍(わだち)』なんです。自分たちのキャリアを振り返った時に、自分の理解が深まるじゃないですか。街も、歴史や出来事を振り返って、点を線に繋いでいくことによって、そこから見えてくるものがある。それが歴史の役割だと思っていて、それを取り入れたものとそうでないものでは結構違いが出てくる気はしています。それが『足元を見ることの大事さ』に繋がってくるのかな、と思います」

“これまで” と “これから

国立工芸指導所は国の研究機関として、東北の産業振興と工芸の近代化に貢献した。今は「知る人ぞ知る」場所となっているが、その記憶を引き継くための活動をしている人や指導所の理念を繋げようとする方々は沢山いる。

1回目の講座を担当した庄子晃子さんは指導所についての研究を行い、論文を多数残している。筆者も指導所について調べると必ず庄子さんに突き当たった。指導所についての講演も多数行っており、小松大知さんの活動も、庄子さんの研究を参考にしている。指導所の後継である産総研は、国内最大級の公的研究機関として指導所の理念を受け継ぎ、産業技術の研究開発・イノベーション政策に取組んでいる。楽天イーグルスのヘルメットは玉虫塗を産総研東北センターが発展させた技術を施しており、指導所の過去と現在の技術の結晶と言えるだろう。

今回の講座を企画した榴ケ岡市民センターは「地域のお宝を発掘したい」との想いで指導所の講座を開催している。来年度も行う予定だそうなので、歴史やデザイン・産業工芸に興味のある方は是非参加をおすすめしたい。仙台には私たちの知らない「お宝」がまだまだ眠っているかもしれない。仙台にある「足元にあるもの」を知ることが「これから」に繋がっていくはずだ。

*この記事は、仙台市の宮城野区中央市民センターとコラボした市民記者養成講座「東北ニューススクールin宮城野」の受講生の制作した記事です。宮城野区を舞台に活動するさまざまな地域密着の市民活動を取材し、発信していきます!他の記事は下記の画像バナーからご覧ください。

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