震災後の家屋解体相次ぐ相馬。古里を愛し描いた老舗料理店主の遺作と思い、どう残せるか 

寺島英弥(ローカルジャーナリスト)】佐久間善彦さん。相馬市で明治27(1894)年創業の老舗料理店だった「まる久(きゅう)」の5代目店主で、昨年10月、血液がんのため65歳で亡くなった。厨房で腕を振るう傍ら、水彩画やアクリル画、墨絵の筆をいつも動かし、多くの絵を残した。相馬城下の暮らしや風物、今は失われた街かどの景色、相馬野馬追の多彩な旗指物を図案化した作品など、ノスタルジックな美しい世界だ。店は主の死と地震被害から休業し、年内に解体の見込み。大きなサイズの作品群は廃棄もやむなしという。が、惜しむ人たちは「古里の歴史文化を今に生かそうという遺言のような絵。残せる知恵はないか」と思案する。 

    

生涯のもう一つの仕事 

相馬の中心部、市役所の隣に「まる久」がある。白壁のモダンな平屋造りの和風レストランが今の姿だが、かつては大きな木造三階楼で、相馬きっての老舗料理店だった。生前の佐久間さんが墨と水彩で描いた、創業のころかと思える大繁盛の絵がある。 

通りに面して「うなぎ」「天丼」「氷 そば」「西洋料理」「ミルクセーキ」などの看板があり、店の周りに赤い毛氈の床几席や人力車が並ぶ。2階の大座敷では婚礼の披露宴、3階では出征祝い。芸者衆の三味線や笛太鼓も響く。せいろ、重箱を重ねて出前に行く店員、天秤棒や荷車の行商人、往来の人々の姿や服装もきめ細やかに描かれている。 

佐久間さんが昔の「まる久」に思いを馳せた絵=「まる久」

「ただの想像でなく、古い写真や資料をできる限り集め、全巻揃えた相馬市史などの書籍も読み、当時の街の日常や風俗を納得いくまで調べて、よみがえらせた絵だと思います。善彦さんは、厨房の空き時間を見つけては裏の創作部屋にこもり。夜も遅くまで絵筆を動かしました」 

妻の千枝さん(62)は、家業を切り盛りする傍ら、創作への情熱と才能を燃やし続けた佐久間さんの姿を振り返る。生涯のもう一つの仕事にしたのが、相馬という古里を描くことだった。 

旗指物が古里を象徴するアートに 

筆者が初めて佐久間さんのセンスあふれる作品を目にしたのが、相馬地方の伝統行事、野馬追(国重要無形民俗文化財)の騎馬武者たちの旗指物をデザインしたタペストリーだった(1999年の作品)。1㍍四方のつむぎ地に315種類もの旗指物がいっぱいに並ぶ。三日月、百足(むかで)、瓢箪(ひょうたん)、日輪、九曜紋、井桁、蜂など一つ一つの文様の面白さ、赤と黒で縁取りされた全体の色の多彩さ鮮烈さに、眺めて飽きることがなかった。 

市内の親類の呉服店から、相馬ならではの土産物の商品化を依頼された仕事だったという。野馬追に参加する武者たちの家々に伝来した旗指物で、それらを網羅した「旗帳」がある。2600にも上る文様を佐久間さんは研究し、古里を象徴するアートに昇華させた。 

「まる久」の店頭に飾られた『旗祭タペストリー』(右上)と『海岸通り絵地図』(筆者撮影)

閉店中の「まる久」の玄関に今も、旗指物のタペストリーとともに大作「海岸通り絵地図」が飾られている。旧相馬藩領(浜通りの相馬市~大熊町)を鳥瞰し、城や名勝、風物、遺跡や文化財などを散りばめた絵地図(93年、123㌢×71㌢)。休日に車で現地のスケッチや撮影を重ね、市町村史や国土地理院の地図を読み込み、5年間の研究の末、ペン画と水彩を駆使して完成させた労作だ。〈「自分の古里であり大好きな相馬地方の歴史と自然をまとまった形で残しておきたい」〉。当時の河北新報の紹介記事に、佐久間さんの思いが記されている(同年5月15日付朝刊)。 

失われゆく商店街を絵に記録 

絵のプロだったのではない。千枝さんによると、「小さいころから絵が好きだったそうです。相馬高校ではサッカーをやり、でも美大に進みたいと、美術に通じた先生の指導を受けて受験しましたが不合格。跡継ぎの立場だったので横浜の商科大に入り、でも諦めきれず美大に再挑戦し、また失敗。それから京都や北海道で働きながら放浪し、山梨の清里では小屋に住んで農業の手伝いをしたそうです」。 

相馬に戻り、両親と「まる久」の切り盛りを始めたのは32歳の時。古くなった老舗を建て替え、新しい店をカンバスにして絵の才能を発揮した。心をほっと温め、郷愁に誘う懐かしい世界は「まる久」のホームページ相馬まる久 (fc2.com) に息づく。その中の「デザイン工房」デザイン工房 (fc2.com) を訪ねてみてほしい。 

「まる久」のお客が手にした小さな箸(はし)袋。そこに相馬の民謡や昔話、野馬追の行列、お城(中村城)の往時の想像図、名所の松川浦、漁港のにぎわいなどの絵がシリーズで約三十種類も描かれた。疾走する騎馬武者や鶴の群舞などを描いた店頭の垂れ幕、店の名物土産になった民謡絵葉書や観光イラストマップ…。 

佐久間さんの古里への愛は、失われゆくものにも注がれた。藩制期以来の古い商人町が、95年に拡幅されモダンな街並みに変わった田町通り。車で買い物に来られない商店街は時代遅れ―との世論が事業を後押ししたが、「『昔の相馬のたたずまいが壊され、消えてしまうのはもったいない』と、善彦さんはカメラを持って田町通りに通い、店々のすごい枚数の写真を撮りました。それを基に絵を描いたのです」。 

同上「デザイン工房」デザイン工房 (fc2.com) の一番下に、「改装前の田町通り」という題の絵がある。上下2段に、商店街の東西両側の並びが忠実に描かれ、30軒近い店が墨と水彩で克明に写し取られている。実物は相馬商工会議所に寄託されたというので、作者の親戚でもある会頭の草野清貴さん(77)を訪ねると、2幅の絵巻物を見せてくれた。長さは5㍍もあり、筆者にも思い出深い店々が 生き生きとよみがえってきた。消えた町並みの「生命」が、ただの記録を超えて絵の中に息づいていた。

東西2巻ある長さ5㍍の「改装前の田町通り」と、相馬商工会議所会頭の草野清貴さん(筆者撮影)

震災と奮闘、突然の発病と死 

2011年3月11日に起きた東日本大震災と福島第一原発事故。震度6強の大地震が発生した時、「まる久」は30人分の会食予約の準備のさなかだった。「食器がみんな飛び出して割れた」と千枝さん。佐久間さんは、妻の実家の仙台に家族を避難させて店を閉め、ひと月、ボランティア作業をした。だが、知人の女性から「あんた、こんなことをしていないで、店を開けなさい。それが務めでしょう」と叱咤激励され、目が覚めたように厨房に戻ったという。 

在庫があったうどん、しょうゆ、それに仙台から取り寄せの利いたエビで、天ぷらうどんを作ると、大勢の避難者が身を寄せ合っていた近くの市「スポーツアリーナそうま」から食べに来てくれ、「温かいものが一番うれしい」という声を聴いて、それから、そば、うなぎも手に入るたびに振る舞った。 

大好きな松川浦や浜の風景、同胞の命を奪った津波に、佐久間さんは深い衝撃を受けた。「でも、自分はどうすることもできず、記録する写真も撮っておられず、震災の写真集が出れば買っていました」と千枝さん。そして、「昔」となってゆく古里の面影を描きとどめる絵はいよいよ貴重なものとなり、人生の仕事となった。 

相馬にはその後も災害が絶えず、19年10月の2度の豪雨水害でも、佐久間さんは避難所にそば、うどん、茶碗蒸しを差し入れた。21年2月、22年3月には大震災並みの震度6強の地震。復興が遠のく城下町に家々の解体、更地の風景が広がっていった。そんな古里を思いながら、佐久間さんは自らの病気とも闘うことに。骨髄異形成症候群。血液がつくれなくなり、骨髄移植しか治療法がない難病。父善将さんも同じ病気で74歳で亡くなった。年1度の基礎検診から20年3月に異常が見つかり、宮城県がんセンター(名取市)に毎月通って、移植に向けた抗がん剤治療を始めた。 

闘病中の佐久間さん。宮城県がんセンターに自作『椿試考』を寄贈した

「入院中も『絵の道具がないと落ち着かない』と手元に置いて、筆を休めませんでした。相馬郷土研究会の機関誌に中村城大手門の表紙絵を描いたり、看護師さんに小さな絵をあげたり」と千枝さん。冒頭で紹介した「まる久」の大繁盛の絵もそんなころに描いたものだ。描くことこそが佐久間さんの生きる力だったのだろう。 

翌3年12月に骨髄が移植が行われ、「本来、順調に回復するはずなのに、免疫力が下がってうまくいかず、普通の人なら何の悪さもされない菌のために体調が悪化してゆきました」。翌4年3月から入院は長引き、盆に一時帰宅した時は『要介護4』の状態。「コロナ禍で面会できず、電話をすれば『大丈夫だよ』と。実は想像を絶する闘病にも頑張って…」。最後まで絵を描きながら、10月4日に逝った。 

佐久間さんが入院中に手作りした薬箱。「最後まで遊び心ある創作を忘れなかった」と妻千枝さん=「まる久」(筆者撮影)

広く知ってもらう遺作展を 

最後に、店に保管された遺作群を拝見した。佐久間さんが大好きな旗指物の図案を描いた凧がある。「跳ね駒」など実に生き生きとして、空に揚げたくなる。旗指物の「月と星」の図案を用いた、野馬追の土産物のTシャツも作られていた。そのセンスは抜群だ。その才能をどれほど地元のために役立ててくれたのだろう。 

高さ2㍍近い板をカンバスにした大作も目に入った。壁に重ねてある1枚ずつ、千枝さんに立ててもらった。襖絵を思わせる一対の細長い絵は、対照的な黒と白を基調に、どちらにも天の川が横たわり、三日月や大小の球形の天体が散らされ、相馬の旗指物の馬、百足(むかで)などが神話の星座となって遊ぶ。伝統とモダンの調和。土星の輪などは渋い金色で、琳派の絵をほうふつとさせる豪華さもある。 

ひときわ大きな四角い作品があった。一つは、やはり暗い宇宙に地球が浮かび、天の川が流れ、まわりを物語の主人公のように旗指物の文様が取り巻く。「善彦さんは、2階の部屋に天体望遠鏡を据え、星座表を貼り、星空を眺めるのも大好きでした。絵の星もただの模様でなく、正確な位置に描いています」と千枝さん。その隣の同じ大きさの作品は、星空を漂う白とピンクの花。『コスモス・レクイエム』という不思議な絵だ。題の由来は不詳だが、作者自身の魂のようにも見えた。 

佐久間さんが残した大作のうちの2点(右が『コスモス・レクイエム』)=「まる久」

これらの遺作について、千枝さんは「善彦さんが病気になって店を休業しようと決め、跡継ぎもおらず、地震の痛みもあり、おしまいにしようと決めました。解体は、時期は分かりませんが確実。中くらいの絵、小さな絵は手元に取っておけるか考えていますが、大きな作品は、残念ですが廃棄するしかないかもしれません」。 

相馬では今年、解体工事が進む民家に伝わる文化財を救出し、城下町の歴史文化を残そうと市民有志の「そうま歴史資料保存ネットワーク」(鈴木龍郎代表)が発足、活動している(参照記事=解体前の商家の蔵から文化財を救出。福島県相馬市で「そうま歴史資料保存ネットワーク」が本格始動 – TOHOKU360) 。幹事の一人で福島県民俗学会長の岩崎真幸さん(71)は「佐久間さんは同じ志の友人で、断腸の思いで逝ったのでは。彼の遺言のような仕事を託された思い。広く知ってもらう遺作展などを企画できないか。どう受け継げるか、知恵を持ち寄りたい」と話している。 

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